中国古代は製鉄の超超先進国であったことは有名である。
黄河周辺の北中国では紀元前4世紀には銑鉄の生産が確立して、それを脱炭して軟鉄の生産も行われていた。
それに対して江南の揚子江周辺では タタラと同じ直接製鋼法が長く続いた。
鋼を生産するには銑鉄からやるには、どこかで脱炭をとめてちょうどよい炭素量にしなければならない。
脱炭は行きすぎると、炭素量がゼロの軟鉄になってしまう。
これを一炒到底といって鋼造りの失敗を示すことばであるが、私も電気炉で実験してこれをやってしまい、頭をかかえたことがあります。
銑鉄を溶かして、そのなかを柳の枝でかき回して銑鉄のなかの炭素を空気中の酸素で二酸化炭素ガスとして減少させちょうどよいところで止めるのがコツですがこれがコツが分からないと出来ないわけです。
何かの容器のなかに銑鉄をいれて溶かしてかき混ぜるだけです。
容器は直径20センチぐらいの坩堝があれば少量生産にはぴったりで、事実戦前の満州では鍛治屋さんはそのぐらいの坩堝をつかっていたようです。
もっとも満州の鍛治屋さんは軟鉄片をいくつかと銑鉄の塊数個をいれていっしょに溶かしたようで、銑鉄が先にとけますから溶けていない軟鉄と反応して軟鉄が半溶解になって表面の部分が鋼になってきたころを見計らって、坩堝をポンと金敷の上にひっくり返し、鍛造を始めるというのがやりかたです。
実はこの簡易小規模製鋼法が日本の奈良時代にもされていたらしい。
なぜそう推定出来るかというと奈良時代のノミと全く同じ型ノミが満州での鍛冶屋で作られていたことから分かります。
つまり奈良時代の製鋼や鍛冶の技は東アジア全体で共通だったと考えるわけです。
坩堝で簡易製鋼をおこなえば再現できないといわれている奈良正倉院の刀剣や鎌倉時代の名刀が再現できるかもしれないと考えるわけです。
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