道草days

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続いて曲輪③から左へ。

 

 

 

この先にあるのが主郭になります。

 

 

ここから出石盆地を一望!登ってきた者だけが楽しめる絶景ですね~(・∀・)

 

 

織田に付く事で但馬に戻り、険峻な有子山に城を築いて再起を図る山名祐豊でしたが、その後は織田と毛利の間で板挟みとなります。

 

当初は三好という共通の敵を持ち、友好関係にあった織田と毛利でしたが、畿内における三好氏の権威の失墜、越前の平定(朝倉氏の滅亡)、本願寺の弱体化(越前や伊勢長島の一向一揆勢力の排除)、足利義昭の京追放を経て織田氏の次なるターゲットが西国の平定へと変化。

 

これによって播磨を境にバランスを保ってきた織田と毛利の関係が崩れ、更に備後・鞆の浦(毛利氏の勢力圏)に逃れた足利義昭によって信長包囲網が構築された為、一転して対立する構図になります。

 

そんな中、山名氏と敵対していた出雲尼子氏や備前浦上氏を織田氏が支援。危険に晒される事になった山名氏は織田氏との関係を断って毛利方と同盟を組みますが…これが悪手。

 

包囲網を破り、丹波や播磨と言った隣国を平定した織田氏が但馬に攻め入り、再び顔を合わせる事になった羽柴秀吉によって有子山城は落城。山名祐豊も間もなく病死し、戦国大名・但馬山名氏はここで滅亡する事になります。

※山名氏自体はその後、因幡山名氏の豊国が家督を継いで続いていきます。

 

 

 

土造りの城から石垣の城へ変貌したのはその後。

 

城主となった羽柴秀長が藤堂高虎に命じて有子山城を改修。より箔の付いた名城へと生まれ変わります。

 

 

しかし、時代の変化を受けて山城であった有子山城は廃城。山麓の出石城へと移って行ったわけですね。

 

 

そんな有子山城・出石城が残していったものが出石の城下町。

 

 

重要伝統的建造物群保存地区にも選ばれてる素晴らしい町並みを残す観光スポットですね~(*´▽`*)

 

 

ここがメインじゃなくても城崎温泉に行くんならここも寄った方がいいし、ブレイク中の竹田城に行くんならここまで来た方がいいしでお城ファンのみならず本当にオススメ出来るスポットです。

 

とはいえ、今回はゆっくりする暇はあまりないので適当に散策。

 

 

 

まずは赤みのかかった特徴的な土壁の蔵を持つ出石酒造。

 

 

初見では絶対に読めない「楽々鶴(ささづる)」という銘柄を造ってるところです。

※由来は最後に出石藩主になった仙石氏の別荘・楽々園とコウノトリ=鶴から来てるようです。

 

 

また1つ知らない酒に出会ってしまったな。(*´з`)

 

 

最後の〆はやっぱりお蕎麦。

 

地元の人にオススメされた輝山(きざん)に入ります。

 

 

出石は元々蕎麦処では無かったらしいんですが、蕎麦処・信州上田より同地に転封された仙石氏によって蕎麦が広められたみたいです。

 

今では「出石そば」と呼ばれるほど有名な蕎麦処になってますよね。

 

 

 

さてさて、ここの特徴は白そばと黒そばの2種類のそばが楽しめるところ。

 

5皿で1セットで白黒楽しむと10皿になっちゃいますが、まあー全然いけますよ。d(゚∀゚)

 

 

出石来たのは2回目だけど…また来たいなー。

 

 

 

急坂地帯を抜け、見えて来たのは遊歩道の看板。

 

 

ここからがようやく有子山城の見学コースになります。

 

 

まず見えてきたのは井戸曲輪。

 

 

いまいちどういう感じだったのか分かりませんが、想像ではこんな感じ。

 

 

気になるのは下に続いていく7段石垣ですが…たぶん曲輪化する為に盛った土が崩れないように土留めの石垣なんじゃないかと思います。

 

水源?の位置が低かったので採水位置を上げたかった→井戸を作る為に曲輪化したって流れだと思うんですけどね。(;´∀`)

 

 

そしてここからは山頂部の曲輪群。

 

 

石垣を使った曲輪が続きます。

 

 

見学コースは曲輪③石垣から分岐。右に行くと…

 

 

 

主郭と千畳敷を隔てる幅28m、深さ12mの大堀切と

 

 

 

東西135m、南北50mの千畳敷という巨大な曲輪が登場。

 

山の上にあるとは思えないぐらいの規模の堀と曲輪…緊急時に籠る為の山城ってわけではなく拠点として本気で築いた感じありますよねー (; ・`д・´)

 

出石城の背後に聳えていたのがもう1つの続100名城・有子山城。

 

一応セットでの続100名城になってますが、築城時期は有子山城の方が早く築城者も出石城とは異なります。

※出石城は小出吉英によって築かれたお城になります。

 

そんな有子山城を築いたのが清和源氏の流れを汲む山名氏。

 

 

清和源氏は清和天皇を祖とし、臣籍降下した第六皇子が源姓を与えられたところから始まります。

そこから摂津源氏→河内源氏と派生していき、武家の棟梁として鎌倉幕府を開く源頼朝へと繋がっていく由緒正しい氏族。

※臣籍降下…皇族が姓を与えられて臣下の籍に降りる事。

 

山名氏は平氏政権打倒を目指し挙兵したこの頼朝に早くから従い、平氏滅亡に貢献した事から御家人に中でも上位のクラス・御門葉(もんよう)として優遇され、頼朝の知行国の1つである伊豆国の国司(伊豆守)の地位を得て名実ともに名門としての家柄を得ます。

 

 

一旦は鎌倉幕府滅亡により没落しますが、今度は同じく清和源氏の流れを汲む足利尊氏に従って室町幕府の成立に貢献。

 

伯耆国の守護職を得るとそこから大躍進を遂げ、全国66か国の内の11か国を治める有力守護大名としてその名を轟かせる事になります。

 

 

その後、幕府に楯突いた事から伯耆・因幡・但馬の3か国に領国を減らしますが、応仁の乱の西軍総大将として知られている山名持豊(宗全)の時に再び盛り返して全盛期並みに勢力を回復。

 

 

しかし、持豊(宗全)病死後は因幡・備後の山名氏が独立、赤松氏による播磨・美作・備前の奪取(奪還)、尼子氏・大内氏・浦上氏による侵攻、但馬の国人衆による反乱を受けて急速に力を失っていき、本拠地である但馬での立ち位置をも奪われ兼ねない状況にまで追い込まれる事になります。

※守護代・垣屋氏によって城崎城を奪われ、豊岡盆地を失い、出石盆地の此隅山城へ追いやられます。

 

そんな状況下で家督を継いだのが山名祐豊。

 

祐豊は武力で国人衆を制圧していき但馬を平定。続いて尼子氏に従属していた因幡山名氏を討ち、因幡での支配権を勝ち取り、戦国大名として復活を遂げます。

 

 

盛衰を繰り返しながらも大名として勝ち残ってきた山名氏でしたが、その前に強大な敵が現れます。

 

それが織田信長。

 

各方面に軍団を派兵し、天下統一へと邁進する信長は中国方面の軍団長として木下秀吉を送り込み、播磨から但馬へと侵攻。

 

秀吉によって当時居城としていた此隅山城を落とされた祐豊は和泉・堺へ亡命。信長と面会ののち、織田軍に加勢する事を誓い、但馬へと戻る事が出来た祐豊は秀吉に敗れた経験からこれまで以上に堅固な城の必要性を痛感し、新たな城を築城します。

 

 

そうして出来上がった城が有子山城。

 

位置は出石盆地の最奥。落とされた此隅山城よりも奥に築かれいるので防御力を重視し、攻めにくい場所選んだというのが伝わってきます。

 

 

それでは城のある有子山の山頂を目指し登っていきましょう。

 

 

事前に集めた情報によるとかなりの急坂との事ですが、まあーこのくらいの登山道なら全然…(;´∀`)

 

ってな感じで登り始めましたが…

 

 

(;゚Д゚)!?

 

 

 

なんじゃこの傾斜はー!!!(゚Д゚)

 

※自分が登った城の中では一番キツく足場も悪い急坂でしたが、地元の人の話によると小学生が遠足でひょいひょい登っていくらしい…ウソだろ、足腰バケモノかよ。

 

ロケ3日目。

 

 

今日はまず西舞鶴から福知山へ移動。

 

 

ここからレンタカーを借りて但馬国(兵庫県北部)の続100名城・出石城&有子山城へ向かいます。

 

 

出石総合支所前の駐車場からすぐのとこにあるのが目的の城の1つ「出石城」になりますが、前に来た事ある城なので今回はさらっとご紹介。

 

 

まずは縄張図。

 

城のメインとなる曲輪は有子山山麓に元々あった館や曲輪を改修。三の丸は後に内堀を掘って増築した部分になります。

 

 

城域は城下町のシンボル・辰鼓楼から。

 

実はこの下にあるのが大手門石垣で三の丸に入っていく事になります。

 

 

 

ちなみに登城門の前にある立派に整備された谷山川は城の堀ではなく後世に作られた川。

 

どうやら水害対策で作られたみたいですね。

 

 

 

階段を上がって見える本丸の東西に建つ隅櫓も本物っぽく見えますが、実は模擬櫓。

 

実際にこの位置に櫓はあったようですが、形状は違うみたいです。

 

 

城の最上段、稲荷曲輪にあるのが有子山稲荷神社。

 

城の鎮守で築城当時からこの場所にあるんだとか。

 

 

ここでしっかり参拝をして山城の方へ向かいたいと思います。

 

さらば敦賀…!

 

 

てなわけでレンタカーを返却して向かったのは京都府舞鶴。

 

 

舞鶴は主に城下町として栄えた西舞鶴エリアと軍港として栄えた東舞鶴の2つの街を持つ街。

 

 

まあ、どっちの街でも飲めそうなんですが…城もあるんで今回は西舞鶴。

 

 

この城、田辺城(舞鶴城)は

 

 

細川藤孝(幽斎)によって築かれた城。

 

 

細川氏というのは元々足利氏の支流。

 

鎌倉時代に下野から三河の細川郷に本領を移したのが始まりで南北朝期に足利尊氏に味方をして四国や近畿で武功を重ねた事で一族で複数の守護を担当、嫡流は室町幕府の管領職を務めるなどした一族。

 

藤孝は将軍の側近・三淵氏の生まれで父の兄で和泉上半国守護を務める細川元常の養子となり、将軍・足利義輝、義昭親子に仕えた人物。

 

織田信長の協力を得て義昭の将軍就任をサポートしますが、信長と義昭が対立すると織田方に付き、各地を転戦。丹後を平定し、丹後南半国を得ます。(北半国は一色氏の所領で信長死後に一色氏を滅ぼし丹後一国を領有した。)

 

 

田辺城はその際に築かれた城でここを拠点に丹後を統治。

 

家督を息子の忠興に譲ると隠居城として宮津城を築いて移ったみたいです。

 

 

ここは田辺城の本丸に当たる場所で現在は舞鶴公園。

 

 

天守台は本物のようですが、遺構はあまりなく復興城門や復興二重櫓がある感じですね。

 

 

まあ、お城はこのくらいにして夜の部開始。

 

マナイ商店街付近で店探し。

 

 

ちなみに「マナイ」とはこの「真名井の清水」の事。

 

 

アーケードの中にこういう風な湧き水があるのも珍しいですねー(・∀・)

 

 

そんな西舞鶴での1軒目は魚源。

 

 

飲んだのは池雲(京都・舞鶴)、王祿(島根・東出雲)、赤武(岩手・盛岡)。

 

京都というと伏見が有名ですが、丹後地域も結構酒蔵があるみたいですね~

 

 

魚は漁港も近いので間違いなし!

 

 

他に舞鶴が発祥といわれてる万願寺とうがらしや

 

 

レア海老の土エビ(ガサエビ、ガスエビ)も食べて満足。

 

いやーやっぱりまだまだ食べたこと無いものっていっぱいありますね~✨

 

 

2軒目はamelloshが滅多に行かないジャンルのダイニングバー「御台所 セバル」。

 

 

これまた珍しくご当地ハイボールの舞鶴ハイボール。

 

 

舞鶴という事で海軍カレー(ピザ)もチェック!

 

舞鶴…美味しい街だなぁー(*´▽`*)