次は山城エリアの連郭曲輪群。
まず気になるのは北西方向の尾根に重点的に曲輪が重ねられてる点。
実はこの理由は簡単でこの先に丹後街道の要所・椿峠があるから。敵も若狭に入る為、そして城を攻める為には峠を通る必要があるのでこの尾根から攻め上がってくる可能性は非常に高いってわけですね。
そんな曲輪群なんですが、実はこんな仕掛けが…
(;゚Д゚) た、たっか!?
元々こんな形をしてるのかもしれませんが、この曲輪群の1つ1つの長さが異様に長いのでもしかしたら高低差付ける為にわざと長くしてるのかもしれませんね。
それにしてもやりすぎやろ…(ドン引き)
更に虎口を設けて曲輪への侵入を防いでるという厳重さ。(ちなみに虎口は2箇所残ってます)
(これ、連郭曲輪群から攻めるの相当厳しいんじゃ…) (; ・`д・´)
最後は本丸。
出入口は2箇所で正面側にあたる北西虎口と
恐らく北東尾根に繋がる東虎口。
石垣の崩落個所が多いですが、本丸はかなりの部分が石垣に覆われてたようです。
曲輪の内部で見ておく点としては奥に見える南隅櫓台。
天守と言える建物があったかどうか分かりませんが、主に南東側の敵に対応する為に建てられたようですね。
と、まあーここまで”難攻不落”っぷりを実際に見てきたわけなんですが、そんな城にいよいよ朝倉軍が攻めてきます。
1563年 粟屋勝久 vs 朝倉軍 撃退成功!
1564年 粟屋勝久 vs 朝倉軍 撃退成功!
1565年 粟屋勝久 vs 朝倉軍 撃退成功!
1566年 粟屋勝久 vs 朝倉軍 撃退成功!
1567年 粟屋勝久 vs 朝倉軍 撃退成功!
なんと5年連続撃退成功。もはや恒例行事のように攻めてくる朝倉軍だったんですが、
1568年に関しては…国吉城をスルー。
そのまま武田氏の本拠・後背山城に向かい、家督を継いだばかりで若い武田元明(若狭武田氏最後の当主)を保護という名目で一乗谷城へ連れ去ってしまいます。
間接的に若狭を支配下に治めた朝倉氏は元明の名を使って勝久に降伏するよう求めますが…これを拒否。抵抗を続けます。
一方その頃、中央では織田信長が室町幕府再興の為、足利義昭をサポートして上洛に成功。
信長は義昭の名を使って大名たちに上洛を求めますが、朝倉義景がこれを拒否。これを将軍に対する叛意と受けて朝倉攻めが決定。
1570年、京を出た信長が若越国境の国吉城に入城。
準備を整える信長軍に長年、朝倉と戦ってきた勝久も合流して朝倉攻めに参加。この時は途中で浅井長政の裏切りがあり失敗しますが、1573年再び朝倉を攻めた信長に再度合流して宿敵・朝倉の滅亡を見届けます。
その後、若狭の大名となった丹羽長秀の与力として活躍。羽柴秀吉と柴田勝家の対立が起こると若狭口を担当する勝久が長秀の命で城を改修。このタイミングで国吉城は石垣を用いた城に変貌していきます。
孤立無援の中、巨大な敵に屈する事無く立ち向かった粟屋氏と国吉城。
それが結果的に時代の寵児を引き寄せ、自らの運命を切り開く事に繋がったんですね。




































































