第十一回「阪路の鳥」⑩ | 道草days

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出石城の背後に聳えていたのがもう1つの続100名城・有子山城。

 

一応セットでの続100名城になってますが、築城時期は有子山城の方が早く築城者も出石城とは異なります。

※出石城は小出吉英によって築かれたお城になります。

 

そんな有子山城を築いたのが清和源氏の流れを汲む山名氏。

 

 

清和源氏は清和天皇を祖とし、臣籍降下した第六皇子が源姓を与えられたところから始まります。

そこから摂津源氏→河内源氏と派生していき、武家の棟梁として鎌倉幕府を開く源頼朝へと繋がっていく由緒正しい氏族。

※臣籍降下…皇族が姓を与えられて臣下の籍に降りる事。

 

山名氏は平氏政権打倒を目指し挙兵したこの頼朝に早くから従い、平氏滅亡に貢献した事から御家人に中でも上位のクラス・御門葉(もんよう)として優遇され、頼朝の知行国の1つである伊豆国の国司(伊豆守)の地位を得て名実ともに名門としての家柄を得ます。

 

 

一旦は鎌倉幕府滅亡により没落しますが、今度は同じく清和源氏の流れを汲む足利尊氏に従って室町幕府の成立に貢献。

 

伯耆国の守護職を得るとそこから大躍進を遂げ、全国66か国の内の11か国を治める有力守護大名としてその名を轟かせる事になります。

 

 

その後、幕府に楯突いた事から伯耆・因幡・但馬の3か国に領国を減らしますが、応仁の乱の西軍総大将として知られている山名持豊(宗全)の時に再び盛り返して全盛期並みに勢力を回復。

 

 

しかし、持豊(宗全)病死後は因幡・備後の山名氏が独立、赤松氏による播磨・美作・備前の奪取(奪還)、尼子氏・大内氏・浦上氏による侵攻、但馬の国人衆による反乱を受けて急速に力を失っていき、本拠地である但馬での立ち位置をも奪われ兼ねない状況にまで追い込まれる事になります。

※守護代・垣屋氏によって城崎城を奪われ、豊岡盆地を失い、出石盆地の此隅山城へ追いやられます。

 

そんな状況下で家督を継いだのが山名祐豊。

 

祐豊は武力で国人衆を制圧していき但馬を平定。続いて尼子氏に従属していた因幡山名氏を討ち、因幡での支配権を勝ち取り、戦国大名として復活を遂げます。

 

 

盛衰を繰り返しながらも大名として勝ち残ってきた山名氏でしたが、その前に強大な敵が現れます。

 

それが織田信長。

 

各方面に軍団を派兵し、天下統一へと邁進する信長は中国方面の軍団長として木下秀吉を送り込み、播磨から但馬へと侵攻。

 

秀吉によって当時居城としていた此隅山城を落とされた祐豊は和泉・堺へ亡命。信長と面会ののち、織田軍に加勢する事を誓い、但馬へと戻る事が出来た祐豊は秀吉に敗れた経験からこれまで以上に堅固な城の必要性を痛感し、新たな城を築城します。

 

 

そうして出来上がった城が有子山城。

 

位置は出石盆地の最奥。落とされた此隅山城よりも奥に築かれいるので防御力を重視し、攻めにくい場所選んだというのが伝わってきます。

 

 

それでは城のある有子山の山頂を目指し登っていきましょう。

 

 

事前に集めた情報によるとかなりの急坂との事ですが、まあーこのくらいの登山道なら全然…(;´∀`)

 

ってな感じで登り始めましたが…

 

 

(;゚Д゚)!?

 

 

 

なんじゃこの傾斜はー!!!(゚Д゚)

 

※自分が登った城の中では一番キツく足場も悪い急坂でしたが、地元の人の話によると小学生が遠足でひょいひょい登っていくらしい…ウソだろ、足腰バケモノかよ。