阪神優勝(中南勢音頭通信 阪神優勝 2003 2016-10-07 12:26:00 )から前回まで、私の野球との付き合いについて述べてきた。もう少しこのことに関して分析してみたい。
長嶋神話の呪縛から解放された身にとっては巨人、読売の横暴は目に余るものがあった。それがチチロー君の発言なのだ。(中南勢音頭通信 イチロー君 4 巨人フアンは読まないで
2016-10-26 17:20:55 参照) 改めて、要所を掲示すると
「いまの日本のプロ野球、野球なんかじゃありゃせんわ、歌舞伎なんかで家元が、顔見世興行打つじゃろう、あれとまったくおなじこと、球界の家元気取る東京読売巨人軍、金の力にモノを言わせてやりたい放題やっつけて、ルールなんかもあらばこそ、自分にばかり都合よく、規則捻じ曲げ、決まり守らず、ねじりひん曲げぶち壊し、金のなる木をかき集め、巨人の帽子とユニホーム、着せ替え人形さながらに、東京ドームという舞台、ずらりそろえて並べてみれば、善悪の判断つかぬ子供たち、もうそれだけで有頂天、これがこのまま大きくなって、モノ考えぬ大人たち、この日本にあふれれば、日本の未来は真っ暗よ。」 とある。
私はこの発言において「家元」という言葉を使った。そう、これが「日本人」の感性・価値観を語る上でのキーワードではないかと考えている。歌舞伎、文楽、能、狂言、等、伝統芸能分野に限らず、茶道、華道、等の趣味の分野、漫才、落語、他、タレント、俳優など大衆文化にもこの傾向がみられるし、驚くなかれ政治の世界でもそうなのだ。その是非についてここで論ずるつもりはない。私が気になるのは、そのメカニズムこそがセーイチ君を生み出していると考えるからなのだ。