さて続きです…
一回だけぺろっと映画を見た素人があれこれ感じたことを書くだけの内容なので、あまり当てにはしないでください。
特に宮崎駿について調べたわけでも詳しいわけでもなく、ただジブリ映画はだいたい見ている…という程度ですのでその方面からの考察でもありません。
ネタバレを含みますのでご注意!!!
よろしいでしょうか?
さて…
続いてはヒミ(ヒサコ)と夏子についてです。
ヒミは下の世界で真人と一緒に冒険をする女の子ですが、その正体は子どもの頃のヒサコ、つまり真人の母親です。
この世界はいろんな時間軸が混ざっているようなので、ヒミはこの後現実世界に戻り、成長して真人を産み、火事で亡くなります。
そして真人は塔の中でヒミと出会うのです。
ループ怖くね?という感じではありますが、最終的にヒミは全てを受け入れて現実世界に戻っていきます。
前回、憧れていた真人の父親と結婚して浮かれている夏子…とちょこっと書きましたが
真人に会う前、彼女には少し自信があったのではないかと思います。
つまり、父親(ショウイチ)と結婚して、真人の母としてもうまくやっていく自信。
でもそれが、心を閉ざしている真人を見て、真人が学校でもうまくやれず、大怪我をして帰ってきたということで自信が揺らぐ。
そこに追い討ちで悪阻で身体も言うことをきかない。
悪阻を…
マタニティーブルーを体験したことのある人ならわかると思うのですが、妊娠中って本当に…不安定なんですよね…
ワー赤ちゃん楽しみ〜
幸せ〜
ってハイになったかと思えば、
私なんかが母親になれるの…?ちゃんと自分の子を愛せるの…?

とどこまでも落ちていく。
まさに情緒ジェットコースター。
そこに悪阻による体調不良、継子の存在、亡くした姉、戦争、その他諸々…となれば、精神的に不安定になるのも…仕方ないのかな、と私は思います。
真人が自分を母と認めていない。それは夏子もよくよく理解しているでしょう。
夏子にとって姉であるヒサコも大切。彼女の忘れ形見である真人をちゃんと育ててあげたい。大事に思う気持ちももちろんあるでしょう。
でも、ショウイチと自分の子どものことを考えると、真人の存在は正直言って邪魔ですよね。
きっといない方がうまくいく。
しかも真人は自分に懐かない。何を考えているかもわからない。
単に継子であれば、他人の子であれば、割り切れたかもしれませんが、血を分けた姉の子どもであると考えれば考えるほど割り切れないということもあるかもしれません。
ショウイチは自分だから結婚したのではなく、ヒサコの妹だから再婚した。つまり自分はどこまでいっても代替品でしかないのではないか。
そんなふうに考えてしまう自分に自己嫌悪する。そんな葛藤の中にいるのだと思います。
だから…
だから夏子は「産屋」に逃げたのだと思います。
産屋というのは母と子だけが入れる神聖なところ。極めてプライベートな空間。
自分と自分の子どもだけが入れるシェルターのようなものです。もし他の誰かが入れるとしたら、それは父親(夫)であるショウイチではなく、夏子の母親だけです。
でも夏子とヒサコの母親はすでに故人のようですね。
姉妹ですら入れない。
もしこの場にいたのが子どもの「ヒミ」ではなく、真人の母である「ヒサコ」であれば、同じ「母」として入れたかもしれません。
ヒサコと夏子の歳の差などは言及がありませんが、そこそこ年が離れているのかな、と思いました。
産屋に籠っている夏子に対してヒミが「いい子だから出ておいで」と声をかけるシーンがあります。
私は年子の妹がいますが、一歳しか違わない妹に対してこんな物言いはしません。
まるで小さな子どもに言うような声掛け。
それはヒサコと夏子の関係性が出ているような気がします。
「ヒミ」はジブリによく出てくるような、快活で行動力があって優しく包容力がある女の子です。
大叔父の書斎に入り込んで、異国の物語などを読んで、いろいろ空想を思い巡らせるような夢見がちな女の子だったのかな。
それであの世界に入り込んでしまった。
もしかしたら、現実世界では病弱で外を走り回ったりはできなかったのかもしれません。
一年も神隠しにあっていて、突然帰ってきた娘を、家族や周囲の人たちが以前と変わらずに接することができるとは思えません。
腫れ物を扱うように接して、夏子ももちろんヒサコとは微妙な姉妹の関係だったのではないでしょうか。
ヒサコ本人はフワフワとしてあっけらかんとしてそうですけど。どこかちょっと掴みどころのない姉。それでも、姉妹の関係は悪くはなかったのだろうと思います。
姉妹って、ちょっと複雑なのです。
さて…一番の謎はあの世界ですけど…
まぁ細かい考察は別の方に譲るとして…
結局この映画は、極めてパーソナルな話なのかなと思うと、納得しやすいのではないかと思います。
あの塔の主である「大叔父」は、世界の維持に腐心し、後継者を求めていますが
結局積み木が壊されても、塔が壊れても、現実世界には何一つ影響はありません。
普通に現実世界では戦争が続き、それが歴史の通りに終わるだけです。
おじさんが1人、塔に引き籠って1人であれこれ考えたところで、世界は何にも変わらないんですよね。身も蓋もない言い方ですが、結局これに尽きるんだと思います。
ネットの情報だけ集めて
アレコレ批判したり文句言ったりするけど
引きこもって何にも行動を起こさない
ネットでは饒舌だけれど、現実世界では他者とコミュニケーションもろくにとれない
でもそれじゃあかんのやで、って言われているような気がします(笑)
だいたい、みんな生きるのに必死な時代に、働きもせず余計なことをツラツラ考えて引きこもったり自死しちゃったりするのは、高等遊民なんて言ったりしますが、食うに困らないボンボンの次男三男と相場が決まっているのです。
それを考えると、大叔父なんてまさにその典型です。
ただ1人で悶々として鬱屈した中にいると、ただ目の前の役割全うして、強かに、逞しく生きている人が眩しく見えたりもします。
そう、キリコさんのように(笑)
キリコさんはどんな状況でも、やるべきことをして逞しく生きる。それが一方からは意地汚くも見えるし、強く美しくも見える。何もわかっていないようで核心をついたりする。その象徴のように思えます。
キリコさんがあの世界にいて役割を持ち、それを果たしているところを見ると、大叔父も「世界を回すためには彼女のような存在が必要だ」とはわかっているのでしょう。
まぁ本人はそういう歯車になる気は一切なくて、あくまで俯瞰で見ていたいんでしょうけど。
そしてヒミは、一方で空想家でありながら、
母親としての役割を全うもできる存在なのかなと思います。
ジブリ映画にはさまざまな「母」が出てきますが、ヒミと夏子は2人とも「これから母になる」存在ですよね。
自分が死ぬと分かっていても、子どもを産むために笑顔で去っていくヒミの姿は「強い母」そのもの。そして自分は差し置いて妹を心配する姿は優しい理想的な姉。
ヒミは最初から最後まで、どこかリアリティがない。
真人は夏子のことを「お父さんが好きな人」と言います。
家の都合などは理屈ではわかっているけど、心情的に受け入れられないのでしょう。
それを受けいれる…のが、このストーリーの肝なのかなと。
…と考えると…めちゃくちゃ個人的な事情ですよね。世界とか戦争とかあんまり関係ない。
ジブリは物語が壮大なものも多いけれど、千と千尋もそうですし、個人の心情や成長にフォーカスしたストーリーが結構ありますよね。
今回の「君たちはどう生きるか」もまさに「個人の成長」「現実を受け入れて前に進む」というのがメインなのかなと思います。
それは真人だけでなく、夏子も…と個人的には思います。
誰しも子どもができたからってそのままなんの疑問もなく「母」になれるわけじゃないんですよね…。
だから、この映画は真人の成長ストーリーというよりは真人と夏子が親子になるストーリーなのかな…と。
当初、真人は夏子を受け入れられずにいました。
会ってすぐお腹を触らせてくる女に明らかに拒否反応を示してましたし、
父親と伯母のラブシーンなんて、子どもはみんな見たくないですよね。
怪我や病気ならまだしも、悪阻で寝込んでるところなんて、なんで見舞いに行かなきゃなんねーんだって感じでした。
夏子が森の中に入っていくのを見たのに、工作を優先します。どう見ても怪しいのに。あまり興味なさそう。
普通だったら妊婦さんが寝巻きのままでフラフラ森に入って行ったら「ん?どうしたんだ?」って思ってもおかしくないのに。
いや無視すんのかいっっって。
真人は一見、聞き分けが良くて大人しい子ですが
その中身は結構腹黒くて傲慢です。
学校で喧嘩して、こんなもんじゃ物足りないと思ったのかさらに自分で自分の頭を石で打ち付けます。
縫合が必要なほど自分を傷つけるなんて…ちょっと普通じゃない。
それを痛い痛いと言うわけでも、どいつのせいだと言うわけでもなく、あくまで「自分で転んだ」と言い張ることで「周りが勝手に勘違いした」という予防線を張ってるわけですよね。
余計にタチが悪いっていうかサイコパス。
思惑通りに父親のショウイチは怒り、学校に怒鳴り込んで犯人探しをし、さらに校長に大金を叩きつけます。これで真人は面倒な学校に行かずともよくなる口実を取り付けます。真人は人付き合いが苦手(というか億劫)そうだし、都会っこのボンボンが田舎の学校なんか行っても面白いことは何にもないでしょうしね。勤労奉仕ばっかりで授業もしていないのなら、慣れない農作業なんかしたくもないでしょう。
怪我をしたことで、父親も夏子も、お世話のばあやたちも真人を労るようになります。
自分のいいように周囲を操っておいて、自分がやらせたわけじゃなくて周囲が勝手にやったんだというスタンスを崩さない。
かなりのワルですよコイツぁ…
そんな真人からすれば、直情的で単純で煽てれば木にも登るタイプのショウイチは扱いやすい相手でしょう。
そんな父親をどこかで軽蔑しつつ、愛されたいとも思う。
新しく生まれてくる赤ちゃんよりも、自分に注意を向けさせるための試し行動のようにも見えます。
めちゃくちゃ拗らせてる。
泣き叫んで自分の痛みをアピールできないぶん、目に見える傷を突きつけることしかできないのかもしれません。
それは「男は強くあれ」という戦前の価値観や教育に対する抵抗のようです。
能天気だと思っていた夏子が思い悩んでいるのを見て初めて、自分以外の他者の痛みや弱さに気付く。
扉の窓から現実世界を見た時に、自分(真人)を取り戻すために日本刀を振り回して戦おうとする父ショウイチの姿を見ることも、真人にとっては大切だったのだと思います。
その姿を見て、ようやく真人は自分が親に愛されていると感じたのではないでしょうか。
思春期かよ
(思春期ですよ)
アオサギやインコたち、あの世界の考察は、きっととても…深いことになると思うのですが、
それは別の方にお任せします。
私が、
歴史が好きで、ジブリが好きで
小さな子がいる母として
妹がいる姉として
この映画を見て感じたことは以上…です!