先日、昨年6月から行方不明だった猫の情報が初めて入り、間も無く猫の行方が確認できました。

結論から書くと、それまで無かった耳カットがされた姿で見つかりました。

 

行方不明になって3ヶ月間経過した9月過ぎ、餌場を見つける事ができなかったこの子は、痩せ細った姿で保護主様のお庭に現れたそうです。そこでご飯をもらえるようになり、間も無くお家の中に招き入れていただきました。

親切な保護主さんは、妊娠しては大変と、病院で避妊手術を行う事にしたのだそうです。

耳カットをしていなかったこの子は既に手術済みでしたが、お世話になっている病院の不妊手術の傷痕がほんの1センチ程でしたので、保護主さんが連れて行った病院で傷痕を確認することはできず、結果、お腹を二度開かれる事になってしまいました。

 

 

本来ならば、生きていてくれてよかった、ということを真っ先に喜ぶべきなのに、後悔しました。

 

また、元の飼い主に、猫エイズや猫白血病感染の可能性も視野に入れて、1〜2ヶ月はケージで隔離してから検査を受けて欲しいと伝えると、それはできない、との返答だったそうです。

 

そもそも本気で捜していたのは、関係のない私だけでした。本当に見つけてよかったのか?

親切な保護主の元で自由に暮らした方が、このこにとって幸せだったのではないか…

お節介をしてしまったような、切ない気持ちです。

 

 

今回の教訓。不妊手術をしたら必ず耳カットすること。

里親様に完全室内飼いの誓約書を書いてもらったところで、猫が逃げた、と言われたら一貫の終わりです。耳カットさえ入れてあれば、少なくともお腹を二度切られるリスクだけは避けられます。

 

そして迷子のポスターは、猫の歩みを考えた範囲と、人間が車で行ける範囲の動物病院全てに配ること。

現地で捜す前に、地図を見て猫の動きを考える必要があったと反省しました。

人間は山道を3〜4㎞登らないと入れない別荘地をポスター配布の対象外にしていましたが、猫の脚ならほんの500mで入れる距離だという事に気がつきませんでした。

 

 

また、里親探しの難しさも改めて痛感です。

どんなに良い人に見えても、猫にとって本当に良い飼い主なのか、覚悟を持って猫を受け入れてくださる方なのか、そこまで見極める事はできません。疑いの思いの方が強く、会ったその日に里親を決めるなんて、絶対に無理です。

そんな話を聞いただけでも、怖くて怖くて仕方がありません…

完璧な里親を求めてしまうわたしは、つくづく、猫を保護する素質がないと感じます。

 

 

 

 

 

野良猫のTNRと地域猫活動、保護した猫達の里親探しなどなど、各地で不幸な猫を1匹でも救いたいと、みんな頑張っています。

少しずつ、野良猫が減ってきているように見えますが、相変わらず、猫は棄てられ、車に轢かれ、時には石を投げられ棒で叩かれ、ワナで捕まえられ身体の一部を失うケガを負わされる…都会では考えられない野蛮な事態が、地域によっては未だ繰り返されています。

どうしてなんだろう、と、考えます。


雨の中を彷徨っている幼い子供がいたら、助けない人はいないと思います。

仮に見て見ぬふりをすると決めた人間がいたとしても、激しい非難の対象となるでしょう。

いかなる理由があったとしても、助ける力のある大人が子供を見殺しにするなど、あり得ません。

でもそれが、猫や犬だったとしたら?

賛否両論になりますか?当然のことですか?本当に?


確かに犬猫を見殺しにしたとしても、自分が傷つけた犬猫でなければ罪に問われる事はないのかも知れません。

では、助ける助けないの境目は、法律で罰せられか罰せられないか、なのでしょうか…



動物愛護管理法の指針では、動物の愛護について、このように説明しています。


動物の愛護の基本は、人においてその命が大切なように、動物の命についてもその尊厳を守るということにあり、動物をみだりに殺し、傷つけ又は苦しめることのないよう取り扱うことや、その生理、生態、習性等を考慮して適正に取り扱うことである。』


そして、こう続きます。


人と動物は生命的に連続した存在であるとする考え方や生きとし生けるものを大切にする心を踏まえ、動物の命に対して感謝と畏敬の念を抱くとともに、この気持ちを命あるものである動物の取扱いに反映させることが欠かせないものである。


また、


人は、他の生物を利用し、その命を犠牲にして生きていかなければならない存在である。

このため動物の利用や殺処分を疎んじるのではなく、自然の摂理や社会の条理として直視し、厳粛に受け止めることが必要であり、

動物の命を軽視したり、みだりに利用したりすることは誤りである。

社会における生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養を図るためには、命あるものである動物に対して、優しいまなざしを向ける態度が求められる。』


と、締めくくられています。


日本において多くの犬猫は伴侶動物というよりも、愛玩動物としてペットとして、同時にモノとして取り扱われています。

しかし、動物愛護管理法の指針にはきちんと、動物の命も人間と同じ命である、と明言されていました。


動物の命は、人間と地続きの命です。

道端に倒れた人間を助けるのも、倒れた猫を助けるのも当たり前のこと、そんな世界になればよいのに。

お互いの違いを尊重し助け合える、そんな世界を待ち望み、今日も猫たちのお世話に明け暮れるのでした。



なぜに君は、私の片膝にしかのらないのか?





しばらく前から、岩合さんの猫歩きの番組を観ると辛くなってしまい、番組鑑賞をやめました。

ここ最近は、SNSで慣れた野良猫の動画を観るのも苦しくなってしまいました。


餌やりさんに走り寄る野良猫の動画を観て、安易に、保護すればいいのに、という発言は出来ないけれど、だからと言って、野良猫がかわいい、という気持ちになることもできません。

ただただ、苦しい。

動画をあげている方達も、悩んで苦しんで、その上で地域猫に餌をあげる動画をアップしていらっしゃるのかもしれませんが、餌場から立ち去る時、残された猫の追い縋るような眼差しを思い出してしまい、胸が苦しくなるのです。


岩合さんに至っては、未去勢の大きい雄猫がお好みということを知り、TNRや地域猫と関わるようになって、岩合さん好みの猫たちの映像を冷静に観ることが出来なくなりました。



外の猫を保護するためには、相当な覚悟と、強い忍耐力と、ある程度の経済力が必須です。そして一旦保護してしまったら、やっぱり無理だと途中で投げ出す訳にはいきません。

保護した野良猫が捨てられた猫だったとしたら、何度も人間に捨てられる、という傷を、ムダに負わせてしまう事になるからです。

既に先住猫がいる場合には、飼主以上のストレスを猫達にかけてしまう場合だってあるのです。


何が正しいとか間違っているとか、そういう事ではありません。

それを言うなら、誰もがみんな正しい。

ただ、自分の感情が苦しいだけなのです。





たとえ飼い猫が外で事故に遭ったり誰かに連れ去られたり野垂れ死んだとしても、家の中に閉じ込められるより外で自由に暮らせる方がマシだ、と仰っていた里親希望者さまがいらっしゃいました。その方は案の定、他の方が保護し譲渡した子猫を外飼いし、行方不明にさせたまま2年以上が経過しています。

当時は怒りに震えましたが、今はその方の飼い方を否定する気力はありません。

全ての猫を幸せにできる程、人間界は幸せではないと改めて思い知ったからでしょうか。

終わらない戦争だけではありません。尊敬に値する活動をされている動物愛護推進員の方が、事実確認する事もなく根拠のない誹謗中傷を拡散し、それを安易に信じて無実のひとを非難する人びとの愚かさに触れ、人間が幸せから遠のいている証拠のように感じています。

それでもせめて、出会った猫たちだけでも幸せに暮らすことが出来るよう、努力は続けたい。





人間に捨てられてどんなに苦しくても、恐らく猫は人間を恨んだりしないでしょう。それを助けなかった人間を、責めることもしないでしょう。

毎日餌をあげ続けたとしても、恩義を感じる事は無いのかもしれません。

それでも猫生最期の時が近づくと、飼主の寝顔を静かに見つめる猫達を、知っています。

感情ではない、透明な何かが、人間と猫との間につながっていたとしたら、それを感じとれる繊細な感性がほしい、と、そう思う今日この頃なのでした。