ということで、
新大河ドラマ『功名が辻』
の35回目を見ました。
北条攻めが始まり、20万対5万6000という圧倒的な戦が今回のメインなのだが、
まずは、前回からの続きで、副田吉成(甚兵衛)(野口五郎)と旭姫(松本明子)の話から。
千代(仲間由紀恵)が針屋をしている副田吉成(甚兵衛)(野口五郎)を見つけ、
屋敷に帰り、旭姫の手紙を持って副田甚兵衛のところへ行く。
副田甚兵衛は、千代に気付くも、頑なに拒否をする。
千代は、旭姫の危篤を伝えるも、副田甚兵衛は逃げるように去っていく。
その副田甚兵衛の行動に、山内一豊(上川隆也)は
「同じような行動を取るし、これ以上関わるな」
と千代に言う。
「忘れよ」と千代に言うが、千代は納得しない顔つき。
場面は、副田甚兵衛に移り、月夜の光で旭姫の手紙を読み始める。
内容は、千代が聞きながら書いた文章で、今にも死にそうな旭姫が映りだされる。
その手紙を読みながら、涙を流す副田甚兵衛。
次の日、千代は死にそうな旭姫の下に、副田甚兵衛を知る商人を連れてくる。
その場には、大政所(菅井きん)、寧々(浅野ゆう子)、羽柴秀長(春田純一)と、
秀吉以外の身内が集まっているようだ。
その商人は、間違いなく副田甚兵衛本人で、何も書かれていない紙を開き、
その場で思う言葉を語っていく。
副田甚兵衛 「わしらは、夫婦じゃ!!」
と、はっきり言い、旭姫も気付くも、副田甚兵衛は逃げるように去っていく。
その後、旭姫は亡くなり、副田甚兵衛も表舞台から姿を消す。
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一豊の口より、小田原城攻めが始まる事が千代に伝える。
余裕の一豊とは違い、千代は徳川と北条が手を組むことを心配する。
場面が変わり、
徳川家康(西田敏行)に井伊直政(篠井英介)と本多忠勝(高田延彦)が
北条と手を組んで豊臣と戦うことを薦めるが、家康は拒否をする。
その徳川の動きを心配した、石田三成(中村橋之助)は、秀吉に人質を取ることを薦める。
羽柴秀長(春田純一)は頑なに家康を刺激するなと言うが、
三成は偉そうに自分の考えを主張し、黒田官兵衛(斉藤洋介)の賛同も得、
秀吉からOKを貰う。
このシーンは、かなり疑問・・・というか不思議な感じがした。
羽柴秀長(春田純一)はこの時点で100万石を超え、しかも太閤の実弟。
石田三成(中村橋之助)はこの時点で4万石程度。
このシーンでは、家来の石田三成の方が上からモノを言っており、
はっきり言って、失礼極まりない!!
秀長ファンとしては、こういう描き方は非常に残念であった。
家康の人質として送られてきたのは、3男・徳川秀忠であったが、そのまま駿府に返してしまう。
そのことで、家康が北条攻めの先陣を徳川がすることとなった。
この後、淀君(永作博美)と三成のシーンが描かれるが、
こう何回も会うと「疑ってください」と言っているようなもののような気がする。
場面が変わり、
一豊軍が出陣し、五藤吉蔵(小倉久寛)と祖父江新一郎(浜田学)の会話があり、
家康と織田信雄の噂が、三成の口から秀吉に伝えられる。
その噂は一豊や山内康豊(玉木宏)など末端の軍にも伝わる。
その不振に思った一豊軍だが、そこに羽柴秀吉本人が現われ、家康のところに一緒に行くことに。
家康陣営に場面が移り、
噂の織田信雄(大柴邦彦)が家康のところへやってくる。
案の定、信雄は謀反を企てるが、そこに秀吉本人がやってきて、謀反話が無しという形になった。
さすが策士・秀吉という所である。
その後、戦争が始まり、一豊や山内康豊(玉木宏)など一豊軍も城攻めに参加、
小田原城以外の城を全部落とし、小田原城を秀吉軍が囲むこととなった。
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秀吉 「これより力攻めはせぬ!!」
と宣言し、三成が兵糧など準備し、一豊は山城を作ることを命じられる。
秀吉 「天下総仕上げの戦じゃ、楽しもうぞ!!」
その言葉に、羽柴秀次(成宮寛貴)・織田信雄(大柴邦彦)・徳川家康(西田敏行)など、
今後秀吉に運命を狂わされる面々が映し出される。
場面が変わり、
秀吉・家康の会話が始まり、秀吉は北条領・関東8カ国を与えると宣言。
秀吉は小便をしながら現在の領地・東海5カ国を召し上げると言う。
その言葉に連れ小便をしていた家康は、驚きながら小便を秀吉の足に掛けてしまう。
若い井伊直政(篠井英介)はその言葉が許せないようで、
家康に色々と進言するも、家康は時を待てという言葉でさらりとかわす。
場面が変わり、
寧々(浅野ゆう子)と千代の会話がスタート。
小田原城攻めには、大名の妻子が多く訪れたようだが、寧々は拒否をする。
その千代は、淀君のお供をし、秀吉のいる山城にいくことに。
その後、淀君(永作博美)と千代の会話がスタート。
近江者を褒める淀君に、千代は尾張も近江も変わらないと言う。
淀君はその言葉に不快になり、さらに千代は淀君の女中に出身を尋ねる。
その女中は「尾張」と言い、さらに不快な表情になる茶々姫。
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小田原城攻めが終わり、論功行賞がスタート。
徳川は関東240万石、羽柴秀次(成宮寛貴)は尾張・伊勢100万石・・・・。
イカを干している千代の元に、一豊が笑顔で帰ってくる。
遠州・掛川5万石を手に入れ、千代は堀尾茂助(生瀬勝久)と中村一氏(田村淳)を聞く。
中村一氏(田村淳)は駿府14万5千石、堀尾茂助(生瀬勝久)は浜松12万石。
徳川が次代の天下を取るかもしれないと思う千代は、秀吉が関東に家康を閉じ込め、
一豊・中村・堀尾など老将を門番として選ばれたと言う。
さらに千代は、いずれ家康が天下を取るかもしれないので、
家康と敵対することはするなと、忠告する。
時代は過ぎていき、羽柴秀長(春田純一)が死に、千利休が切腹、
さらに鶴松が死に、そして豊臣政権が崩れていくことになる。
次回へ続く。
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井伊 直政
今川氏の家臣だった井伊直親の子として遠州井伊谷で生まれる。井伊氏は元来遠江の国人で、直政の祖父(または一族)井伊直盛は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。父・井伊直親は、直政の生まれた翌1562年に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。井伊氏は井伊谷(現在の静岡県浜松市引佐町井伊谷)の所領を失い、虎松は不遇な少年時代を送った。1575年、徳川家康に見出され、取り立てられて旧領井伊谷を与えられる。
直政は高天神城攻略を初めとする武田氏との戦いで数々の戦功を立てて勇猛を鳴らし、1582年に22歳にして旗本先手役に任ぜられて、家康子飼いの武将である本多忠勝や榊原康政の同僚となる。同年の本能寺の変後、家康が武田氏旧領の信濃・甲斐を併合すると、武田家旧臣を多数与力に付属され、山県昌景の朱色の軍装を復活させて井伊の赤備(いいのあかぞなえ)と称する精鋭の将となった。
直政は部下に厳しく、過怠があれば容赦せず処罰し、一軍の部将となっても自ら先陣に立って戦うことを好むなど激烈な性格で、欠点も多かったが、かえってそのために大きな戦功を立てることができたのだともいう。こうした性格から、井伊の赤鬼として恐れられた。
1584年の小牧・長久手の戦いでも赤備を率いて戦功を挙げた。豊臣秀吉にも高く評価され、徳川氏と豊臣氏の和解後、従五位下侍従・兵部少輔に叙任される。
直政は新参ながら数々の戦功を評価され、1590年の関東入りに際しては上野国箕輪(群馬県高崎市)に家臣中第一位の12万石を与えられる。1598年には、箕輪城を廃し、南の和田城を改修して高崎城として、高崎(群馬県高崎市)に移る。
1600年の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行。諸大名を東軍につける工作を行い、また本戦においても家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を補佐して西軍に一番槍を付ける戦功を立てる。関ヶ原の戦いの戦後処理と江戸幕府の基礎固めにも奔走し、自らは石田三成の旧領近江佐和山18万石(滋賀県彦根市)を与えられた。
しかし、1602年に、おそらくは過労と島津義弘軍の追撃において受けた鉄砲傷の破傷風が元で死去した。墓所:滋賀県彦根市の祥壽山清涼寺。
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次回は、豊臣政権の衰退が描かれていく。
秀長が死んだことをもっと取り上げて欲しかったな~。
では、ここまで。