四天王寺 | みー散歩~神社仏閣御朱印めぐり~

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四天王寺(してんのうじ)
誰もが御存じ、聖徳太子が建てた寺院ですお願いキラキラ
今回、数回の撮影で撮った画像をUPしているので
(広過ぎて1度では無理だった)
暗かったりするかもしれませんが、御了承をアセアセ
&文字数が4000文字をオーバーしそうなので、説明不足かも知れませんが
詳しく知りたい方は、四天王寺HPを見てねウインクキラキラ{ブログ最後に載ってます!!
 
下矢印お寺なんだけど、鳥居なんです神社ハッ下矢印

山号 荒陵山
宗派 和宗
寺格 総本山
ですウインクキラキラ
 
下矢印境内地図下矢印
 
ほんとに広くて・・画像だけでも凄い枚数になってしまい
説明が不足するかもしれませんが御了承を・・・お願いアセアセ
 
さて・・石の鳥居をくぐるとすぐに
学校がありますびっくりハッ
 
由緒は
蘇我馬子のの法興寺(飛鳥寺)と並んで、日本最古の本格的な仏教寺院です
四天王寺の草創については《日本書紀》に記されています・・
用明天皇(87年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の
間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった現在の布施に攻め込んだが
敵が稲城を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので
蘇我軍は三たび退却した。
聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て
白膠木(ぬるで)という木を伐って四天王の形を作り・・
「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」
という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し
彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった!!
その6年後、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。
寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという
(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。 ←コピペ
 
下矢印極楽門(夜)下矢印
下矢印極楽門(昼)下矢印
 
下矢印五重塔下矢印
下矢印金堂下矢印
 
下矢印中門(夜)下矢印
下矢印中門(昼)下矢印
 
下矢印南大門下矢印
 
下矢印南鐘堂下矢印
 
下矢印太子井戸下矢印
 
下矢印逢坂清水と融通地蔵下矢印
 
 下矢印元三大師堂下矢印
 上矢印安政地震津波碑上矢印

 上矢印三面大黒堂上矢印

上矢印英霊堂上矢印
 
下矢印本坊下矢印
 
下矢印石舞台下矢印
 
下矢印六時礼讃堂下矢印
 
 下矢印牛王尊下矢印
 
下矢印亀井堂下矢印
亀井不動
 
下矢印亀遊嶋辯天堂下矢印
 
下矢印太鼓楼下矢印
 
下矢印黄鐘楼下矢印
 
下矢印義経よろい掛け松下矢印
 
下矢印布袋堂下矢印
 
下矢印清浄水井戸下矢印
 
下矢印万燈院下矢印
 
下矢印阿弥陀堂(夜)下矢印
下矢印阿弥陀堂(昼)下矢印
 
下矢印弘法大師像下矢印
 
下矢印宝物館下矢印
 
下矢印番匠堂下矢印
 
下矢印太子堂下矢印
 
下矢印普賢菩薩下矢印
 
下矢印休憩所下矢印
 
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下矢印大阪七福神下矢印
IMG_20170706_201811377.jpg
 
四天王寺
住所 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
アクセス 地下鉄谷町線「四天王寺夕陽丘」えきから参道で5分