13時過ぎのライトレールに乗った。
全席が埋まっていた。
2,3人が立っていた。
50万都市にできた新交通システムに乗る。
それを目的とする私たち集団は10名程度。
それ以外も多くは観光客に見えた。
6月5日(水)12時過ぎには宇都宮駅新幹線改札口に立っていた。
集合時間の13時までに昼食を終えておきたい。
そう思って、その階下の食堂街に行った。
その時間には餃子屋は客が並んでいた。
これではうまくない。
コンビニで巻きずし弁当を購入しコンコースにある茶店で済ませた。
雷都の宇都宮は青空だった。
あの東口の風景が変わっていた。
忘れられるような殺風景さが消えていた。
道路の真ん中に線路があった。
田園風景が続き、鬼怒川を渡る。
飛山城跡を過ぎて、旧清原村。
この辺りの風景は18年前と変わらない。
「青陵高校前」で降りた。
停車場の名前とは少し違って、そこは作新学院大学の北側駐車場の横。
勝手知ったる場所。
歩いて、キャンパス内に入った。
あの頃よりも樹木が大きくなっていた。
施設の傷み具合はそのキャリアを表現していたが、基本は私がいた頃と変わらない。
私がいた時と同じ学バスもある。
新交通システムは去年8月に運営を開始。
通学手段としてはこれからである。
大学のある清原地域は北関東の工業団地として開発が進んだ。
宇都宮都心とのつなぎが新都市交通システムに期待されていた。
私が働いている時に、その課題が明らかにされていた。
それを裏付けるように、交通渋滞が続いていた。
その対策がここまで続いていたということだ。
2001年4月に作新学院大学の専任教員になった。
地域とのつながりを重視する大学を目指していた。
それに同意して参加した。
「地域発展学部」という攻めの名称がよかった。
希望があった。
だが、それでは学生が集まらない。
その対策としての総合政策学部への名称変更
そんな経営判断があったことを聞いた。
7年目に弘前大学に転職した。
地域政策専門の教員の公募に応じた結果だった。
私なりには、新たな地域づくり、まちづくりの教育研究を目指したものだ。
一緒に働いていた教職員から厳しい声が飛んできた。
言葉は忘れたが、戦線離脱を責める内容だった。
一緒に働く教員に地域志向が弱いと思った。
それに従うわけにいかない。
家族を支えることもあったし、私の挑戦でもあった。
15時過ぎにキャンパスまで迎えにきてくれた人。
東京での学生アルバイト時代から付き合いを続けている高島進さんである。
彼の宇都宮の自宅に向かう車から、ライトレールが見えた。
その若々しい風貌に新たな希望をもつときがきている。
東京多摩の自宅に戻ったのは22時50分。
18年前の記憶を確認する旅でもあった。