生活そのものが都市になる     | まちづくりの将来

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私たちが生きている地域社会を見つめ、これからのあり方を考えるブログにしたい。

50年や100年のスパンで都市をとらえる。

そうすると見えてくるのは、都市の流動性であり定着性を失う人間の姿。

その人間を受入れるやすいものが都市。

一日いるだけで30年も住んでいる感じを人間に抱かせる町。

それが50年先の都市だ。

 

 

これまで都市は交易の町だった。

産業革命以降の都市は生産の町になった。

その後の都市は第三次産業中心で管理中枢機能が集中している。

交易も生産も管理中枢機能も都市とっては過去のものとなった。

都市は人間が集まる広場ではないか。

そこに集まる人間の生活そのものが都市である。

 

 

「都市政策における保守と革新」『現代社会主義』(現代社会主義研究協会1968年8月)の田村明と鳴海正泰の雑誌対談76頁~87頁の最後の頁。

田村明が都市の思想として都市を語っていることの要約である。

 

 

当時の田村明は横浜市企画調整部長で鳴海正泰は横浜市総務局主幹。

この2人は飛鳥田一雄横浜市長のいわばブレーン。

横浜市は社会党系革新自治体として活動していた。

 

 

国政は田中角栄が自民党に都市政策調査会を発足させ、その後に総理になり「日本列島改造論」を打ち出すが、

その直前の頃の時期である。

この対談は美濃部都政批判が出始めた頃のことで、保守と革新の都市問題、都市政策へのアプローチを語り始めることから対談は始まっている。

 

 

田村明は田中角栄の調査会を政治家と官僚の野合と批判しながらも、

政策立案の仕方がそれまでと比べて技術的に整備されてきたと評価している。

その背景には当時の保守、革新の政党が都市政策のあり方を競っていたこともある。

 

 

その上で、大規模プロジェクトのイニシアチーブ、資金(都市開発の三銀行)等を取り込み、

都市政策の「自家薬ろう」にする動きをつくったこと。

社会党、民社党、公明党、共産党も都市政策のあり方を提案しているが、そんな自民党のような戦略はなかった。

 

 

田村明の都市政策は住民のハダにあう政策と50年、100年の時間軸の文明史的視野を政策の2つの局面への対応だ。

この矛盾する2つの思考をどう具体化するか。

横浜市という対象を得て、その実現を進めていた。

 

 

当時の横浜は東京に従属する郊外都市だった。

交易と生産の都市で、第3次産業の都市だったかもしれない。

東京から自立する都市になるための都市政策を考えていた。

 

 

その先の都市イメージが求められた。

編集部からである。

田村は答えたことは冒頭のこと。

 

 

都市の定着性ではなく、流動性だった。

冒頭の表現を繰り返す。

「一日いるだけで30年も住んでいる感じを人間に抱かせる町」。

住民のハダ感覚を読み込めた町ということだろう。

そして、都市は人が集まる広場であって、

「生活そのものが都市になる」ということだった。

 

 

明日、この資料を基礎にした勉強会に参加する。

他の4人のメンバーがどのように反応するのか。

それも楽しみである。