宇都宮の余韻     | まちづくりの将来

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私たちが生きている地域社会を見つめ、これからのあり方を考えるブログにしたい。

2001年4月に宇都宮に職場を移した。

3年の単身赴任生活を終えた後で、東京多摩の自宅からの通勤だった。

週3回の勤務で、授業と学務に関わった。

京王線で新宿に行き、埼京線で大宮、その先は新幹線で宇都宮駅というコースだった。

 

 

学生との学びが楽しかった。

18歳の男女とまちづくりを考える時間がよかった。

同時に、教員との交流も新鮮だった。

若い教員もいたが、50代後半の実務上がりの職員もいた。

 

 

その頃の私にとってもテーマは大学と地域社会だった。

大学所在の地域は旧清原村で昭和の大合併で宇都宮に吸収されていた。

清原学を提唱した。

当時、山形県で高まっていた「地域学」を参考にしていた。

当時発行された清原村合併50年史を基礎にするものだった。

清原地区の竹下町の町内会長や宇都宮市市議会議員とも交流した。

 

 

その頃の関東都市学会のテーマに「大学と地域社会」を提案している。

自分が所属する作新学院大学は「地域大学」だと公言していた。

定義ははっきりしていないが、真正面からの批判を受けることはなかった。

 

 

その考え方が現代GP申請につながっていた。

当時の諸富学長と一緒に文科省の現代GPを取りに行く活動をしていた。

宇都宮から茂木町に至るエリアを大学活動に巻き込む。

そんな企画を考えていた。

50代の前半の私は3年ほど没頭した。

申請は2回ほど落選した。

2回目はいわば予選を通過し、ヒアリングまで行った。

3年目に採択された。

 

 

基本は地域社会と連動させる大学教育事業だった。

諸富学長と一緒に喜んだことを思い出す。

地域発展学部という学部名称は総合政策学部に変わっていた。

北関東100キロ圏の小さな私立大学が生きる道は地域社会との連携だと思っていた。

 

 

同じころに私は弘前大学の公募に挑んでいた。

北東北の国立大学が大学院の専任教員を求めていた。

地域社会研究科という独立大学院。

専門は地域政策研究だった。

 

 

その頃はすでに博士の学位を法政大学大学院人間社会研究科から得ていた。

博士(人間福祉)だった。

宇都宮で獲得した地域大学論が私の教育方針だった。

2006年10月から半年近い審査があった。

面接では宇都宮での活動を中心に語った。

 

 

結果が出たのは2006年末だった。

現代GPの決定とほぼ同時だった。

学部内からの私への批判が出た。

弘前大学への転出辞退を学長に求める動きだった。

 

 

新潟大学OBの教員からもので、現代GP担当を私に求めるものだった。

私は何も言わなかった。

現代GPの企画は私のものであっても、大学が採択されたもの。

どのように動くのかは黙っているしかなかった。

結果として、私は作新学院大学を退職し青森県弘前に旅立った。

九州で生まれて、関東に行きそこから北東北に向かった。

自然も文化も全く違う地域に居所を求めることになった。