廃校小学校のことが自己紹介になる     | まちづくりの将来

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私たちが生きている地域社会を見つめ、これからのあり方を考えるブログにしたい。

相手から声をかけてきた。

京町の喫茶店である。

湊町55番地に生まれた。

そんな自己紹介があった。

 

 

光園小学校に通ったのかを聞いた。

小さくうなずいた。

私は大久保小学校に通ったと言った。

昭和30年に小学校に通い始めた。

同学年だった。

1月10日(水)15時前。

京町交差点そばの喫茶店のターリーである。

 

 

湊栄地区再開発の準備組合のことを聞きたい。

その関係者の1人とターリーで会うことになった。

初めての出会い。

顔や背格好、そして年齢も知らない。

 

 

ターリーにはそれらしい老人が私以外に2人がいた。

1人はキャンプ用のハット、もう1人は毛糸の帽子。

大きなコーヒーカップを机の上において、2人の老人を交互に見ていた。

 

 

毛糸帽子の老人が私に声をかけてきた。

うっとうしいような顔だった。

港町55番地の声の響きが美空ひばりの「港町13番地」に似ていて笑った。

年恰好が私に近い。

それで光園小学校に通学したのかを尋ねた。

今、光園小学校はない。

隣の戸尾小学校と合併して、「祇園小学校」になっている。

 

 

生まれた年月は昭和23年5月だという。

私と同学年だった。

光園小学校なら、神吉君のことを出した。

知っているといった。

彼は前川清のことを出した。

仲良しだったという。

 

 

小学校、中学校のこと。

佐世保で生まれ育った2人。

意気投合した。

 

 

おやじさんがクリーニング屋だった。

彼はそれを家業として継いでいるといった。

朝の9時から午後3時まで店を開けている。

チェーン店の粗雑なクリーニングを批判した。

 

 

私の母方が清水町で一時クリーニング屋をやっていたこと。

私の中学時代に店を閉めた。

そんな話。

中学時代の学校間のけんかの話になった。

 

 

なんだか、会ったばかりなのに仲良しの気分になった。

今はない光園小学校を持ち出したのがよかったのだ。

このクリーニング屋に私の洗濯ものをお願いしたくなった。