『茂手木伸夫』 のコラム -9ページ目

11月のコラム   「K・Y」でいいじゃないか

なるほど、空気読めないでK・Yか・・・。いますよね、K・Yの人が。あなたの身近にもきっといるのでは。ひょっとしたらあなた自身が人から言われてたりして。「おまえK・Yだな、もっと場の空気を読めよ」って。

 最近、衝撃的な本を読んだ。「僕には数字が風景に見える」という本。イギリスのダニエル・タメットという人が書いた本だ。著者はアズベルガー症候群でサヴァン症候群でもある。要するに自閉症の一種で人とのコミュニケーションにハンデを持っている。同時に常人では考えられない記憶力と計算力を持っている。2004年に円周率の暗唱を小数点以下2万桁以上も行なって記録を樹立した。テレビでもドキュメント放送をされたが、この本ではダニエル本人が自らの「頭と心の中」をいきいきと描いている。数字や数式が「普通の人」とは違う感じ方で彼には美しい風景に見えるという。いままでこのような「障害」を持った本人が自分のことを書き、本にすることはなかった。彼のおかげで、「普通の人」と違う認識の仕方をする人がいるのだということ、しかもその人は並外れた記憶力と計算力と言語習得力〈彼は9ヶ国語が話せる〉という能力を持っているということが良くわかる。「普通の人」と違うことのなんとすばらしいことなのか。

 コミュニケーションの本質的価値とは「他人に同調する」ということではなく「多様性の受容」ということである。対人スキルアップの研修や理論を学ぶと出てくる重要な意味を持った一文である。要するに、人と人は違うという前提でコミュニケーションをとることが大切であって、同じ意見に合わせたり、合わさせたりすることではないということ。ダニエル・タミットはこのことの大切さを教えてくれる。彼は人とのコミュニケーションがうまく行かない。でも彼の周りには両親や兄弟はもちろん、先生や友人などの忍耐と理解のある人たちが多くいた。彼らは、一つの価値観をダニエルに押し付けたり、一つの意見に同調することを強制したりしていない。「アイツは俺たちとちょっと違う」といって排除していない。そのことが大切なのだ。

 でも、企業活動などの営利組織では一つの意見にまとめたほうが良いと普通は考える。そのなかのコミュニケーションは「他人に同調する」事なしには成り立たないのではないかという疑問がある。当然のことである。たとえば同じvisionに向って心を一つに合わせた組織は強い。当たり前のことだが、ちょっと待てよ。本当かな。そこで常識を疑う。その組織に空気の読めないいわゆるK・Yの人がいただろうか。その人たちの意見を十分に聞けただろうか。この場合のK・Yとは他人の意見に簡単に同調しない人のことを言うのだけども。飲み屋などで雰囲気を壊すK・Yではなく、頑固に「ちょっと待てよ」とか「デモさ、こんな考えもあるし・・」とか言って会議が結論を出そうというときに待ったをかける人のことを言う。もう時間がないからとか、そろそろ結論をという時になってこの人たちが出てくると議論が元に戻ったり、堂々巡りをしたりする。だからこの人たちはK・Yと人に言われる。でも、この人たちがいない会議での結論でいいのだろうか。

 多様性受容のコミュニケーションが十分にできている組織の会議では「構成メンバーの一人ひとりが自分の意見を持ち、それを十分に表明し、そのコラボレーションのなかから高次元の結論を導き出すこと」ができている。地位の高い人の意見に単に同調したり、多数に従うのではない。逆に言えば、地位の高い人や会議を主催する人は自分の意見に同調する人が多ければ、その結論を疑うべきだ。部下から「部長のおっしゃるとおりですね」といわれて喜んでいる場合ではない。「部長、それは違うのではないですか」と言われたら喜ぶべきである。K・Yの人の意見こそ歓迎すべきである。

 K・Yといわれている人に朗報です。その場の空気や上司の顔色を伺いすぎるとうつ病に成り易いのですぞ。だから、おまえK・Yだな、空気を読めといわれたら素直に喜ぼう。

 他人や上司に服従しやすい性格の人はなんとか頑張ってK・Yに成りなさい。自尊心を高めないとうつ病が忍び寄ってきますよ。たまにはノーと言って見よう。すっきりするぜ。

 他人や部下に安易に同調を求め服従を求める管理職は、自分の組織を駄目にしていることを自覚しなさい。同調人間ばかりの組織は個人の自尊心が低いだけでなく組織の自尊心も低い。だから、自分達の会社や組織に自信がない。そんな会社や組織が強いわけがない。でも、ひょっとしたら、部下から意見を言われたら困ってしまうのだろうな。そのような管理職は。本人に自信がないから部下に服従を求めるのかな。そんな管理職はまず自分の自尊心を高めなさい。どうすればいいかって。簡単なことです。自分がK・Yになれば良いのです。

10月のコラム 「人は見たいと思う現実しか見ない」ユリウス・カエサル

 お笑いコンビ『麒麟』の田村君は中学生の時、突然ホームレスになったという。差し押さえられた自宅の前で、父より「家族解散」の宣言を受けた田村一家。彼は兄姉と別れ一人で公園の遊具の中で寝泊りしたのだ。壮絶な話だな。彼はその時13歳だったという。1979年の生まれだそうだから、ちょうど1992年のバブル崩壊の頃だ。「夜逃げ屋本舗」などという映画が公開されたころだ。何があってもおかしくはないが、中学生のホームレスとは驚いた。いたのだな、現実に。

 そういえば、深夜営業のマクドナルドにハンバーガーを買いに行った友人の話だが、店内で食べると言うとスタッフから2階を見に行ってから決めたほうがいいですよといわれたそうだ。言われた通り2階に言ってみると、ホームレスというかそれより少しは身なりのよい人たちで席が埋まっていたという。バブル崩壊の頃の話ではなく最近の話だそうだ。

 ヨーロッパを旅すると、いわゆる「物貰い(乞食)」が多くいる。マドリットでもリスボンでも地下鉄には必ずといっていいほど「物貰い(乞食)」がお恵みを求めている。大人も子供もいる。日本にも昔は多くいた。私の記憶にも残っている。戦病者の人がアコーディオンを弾きながら街頭に立っていたし、筵(むしろ)を引いた上に座って、茶碗を前に出していたのを見た記憶がある。今の日本にはホームレスはいてもこのような職業としての「物貰い(乞食)」はいない。

 という話をあるところでしていたら、とんでもない、今でもいますよ。と指摘された。女性のホームレスが駅でお恵みを待っている姿を何回も見たという。私は見たことがなかった。

 「多摩川・台風・ホームレス」でネット検索をするとすごいよ、と友人に言われた。先日の台風9号で多摩川の下流が増水して、蒲田と川崎の間の京浜東北線や東海道線が不通になった。あの広い河川敷が全面的に水に浸かった。河川敷に住んでいたホームレスの人たちはどうなったのだろうか。友人はその好奇心から検索をしたそうだ。ん、3人が流された目撃情報、いや30人ほどが流された、とか、救助を拒んだ人たちが多くいたとか。

 現実はどうだったのだろう。

 中学生のホームレスや深夜のファーストフードにいるホームレス、多摩川の人たち、何で私は知らなかったのだろうか。「人は見たいと欲する現実しか見ようとしない。」これはユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の言葉だ。人は見たくないものを見ないようにしてしまうのだ。自分がこうありたいと思う現実しか眼に入らないのだ。それ以外のものは見ないことで現実にはないものだと思ってしまう。とカエサルは言う。彼にはローマの人々が見たくない現実が見えていたのだ。だから、世界を変える力を持った人間だったのだ。

 私もそうだ。見たい現実しか見ていなかったのかもしれない。だから、眼に入らなかったのだ。92年のバブル崩壊の当時も、私は見たい現実しか見ていなかった。さまざまな情報の中から、自分に有利な情報だけ選んで見るようにしていた。たとえば、円高がすすむのか、円安にむかうのか、輸入住宅のビジネスを展開しようと思っている時、有利な円高に向う情報だけが耳に入ってきた。でも今思えば、それは違うのだ。私が自分に有利な情報ばかり選んでいて、自身を安心させていただけなのだ。カエサルの言う「見たい現実しか見ようとしない」のだ。

 見たくない、いやな現実もしっかり見なくてはいけない。経営やビジネスにとって、これは命取りになりかねない大切なことである。

 先日、顧問先のある会社の社長が「常識を疑う」ことが大切と話をしておられた。がんじがらめの常識にとらわれていると見たくない現実が見られなくなるのだ。

 見たくない現実。われわれにとって、見たくない現実とはなんだろうか。

 離婚した経験を持つ男の多くは、離婚した後も離婚の原因が思い当たらないと言っているという。これもいやな現実を見ていなかったからだろう。

 もう一つユリウス・カエサルの言葉「悪(あ)しき結果に終わったことの多くは、良い動機から出発していたものだ。」

 良い動機が良い結果をもたらすとは限らない。往々にして逆になることが多い。経営やビジネスでは動機は問われない。いつも問われるのは結果である。

(ユリウス・カエサルの言葉は塩野七生著[ローマ人の物語]より引 用い たしました。)

9月のコラム 「十人十色・じゅうにんといろ」

 社員研修の仕事をしていて楽しみなのは、若者と一緒に食事をすることである。研修中に食事を共にすることもあれば、研修以外でも一緒にご飯を食べる機会もある。食事をしながらいろいろな話ができるのが楽しい。若い社員の本音が聞けたりする時もあるし、意外な一面を発見する場ともなる。

 私が若いときの先輩からの教えに「一緒に飯を食うとその人間が良くわかる。」というのがある。この教えは、たとえば採用活動の場に脈々と受け継がれている。面接を繰り返してもその人間性まではなかなかわからないのが、食事会になると俄然その人間性が際立ってくる。こんな経験を人事の採用担当はたくさん経験しているだろう。私が小企業を経営していた時も、採用面接は夕方にして、すぐ応募者と飯を食いに行っていた。もっとも、ただ単にビールが飲みたかっただけかもしれないが。

 では、一緒に飯を食うとその人間の何がわかるというのか。それは、「親の躾(しつけ)」がわかるのである。焼き魚、アジの塩焼きなどを食べると一目瞭然である。身のばらし方、骨の始末、食べ方のきれいな人もいれば、まったく食い散らかす食べ方の人がいる。箸を満足にもてない若者も多い。やたら食いかけを小皿に置く奴。食べ物が口に入っているのに平気でおしゃべりする奴。でも、私が一番駄目だと思うのは「食べ物の好き嫌いを自ら言う奴」だ。好き嫌いをする奴ではなく、好き嫌いを聞かれもしないのに、「私、ピーマン嫌いなの。」「俺、さかな系は駄目。」「私って、鶏肉って食べない人なの。鶏皮を見ると鳥肌が立っちゃう。」・・・聞いてるこちらの鳥肌が立つ。

 もう一度断っておくが、好き嫌いをすることは別に悪くない。私も食べず嫌いが多い。

ただ、好き嫌いを人前で得意げに言う人間がいる。この人は「仕事ができない人」であると私は判断する。好き嫌いがあっても人前で言うな。あえて人間としての未熟さをさらすな。テーブルに嫌いなものがあったら、黙って箸を出さなければ良いのである。聞かれたらさりげなく答えればよろしい。

 十人十色という言葉がある。ジュウニントイロと読む。人間は十人いればみんな顔や形が違うし性格も違う。もちろん好きな食べ物も違う。当たり前である。だから、自分の好きな食べ物を他人に強要しないでもらいたい。宮城県の仙台に仕事で行ったとき、相手先企業の人と食事に出かけた。テーブルに名物のホヤの酢の物が乗っている。これが駄目である。ホヤが食べられないのだ、私は。しかもでっかい。仙台の企業の担当者は「おいしいですよ。是非どうぞ。」とすすめてくれる。箸を伸ばさないでいると「これをお嫌いですか。こんなおいしいものを、お嫌いなんて、先生って変わってらっしゃいますね。」と相手が言ってきた。大きなお世話だ。ほっといてくれ。こちとら江戸っ子だ、べらぼうめ。

 江戸っ子といえば、江戸っ子の好きな食べ物に「クサヤの干物」というものがある。鯵やトビウオの干物だが、特別の液体につけて干すから独特のにおいがする。伊豆七島の名物である。もちろん私の好物である。しかし、家庭で焼くとすごいにおいがする。近所迷惑の匂いだ。だからめったに食べない。これは他人にすすめられない。下手にすすめたら喧嘩になる。それほど強烈な匂いだ。

 好き嫌いは人によって違う。そのことを強制してはいけない。たとえば、妻の友人で犬の嫌いな人がいる。この人の犬の嫌い加減は普通ではない。まったく受け付けない。犬の散歩を見ただけで体がすくんでしまう。犬がそばにきたら動けなくなって、涙ぐんでしまうそうである。最近多いのが、人混みに平気で犬を連れ歩く人たちだ。駅前や商店街、バスの停留所などで散歩させたり抱っこしたりしている。見るからにかわいい顔をした子犬もいる。

 ある日、バスの中で隣の人のショルダーバックのようなものから急に犬の顔が出てきた。私は驚いて、小さな声を出した。予想外の出来事だったのである。そしたら、飼い主と思しきご婦人が「あら、この子はおとなしいのよ。こんなかわいい子を嫌うなんて。」と言って、私の顔を不思議な生き物でも見るような眼でにらんだ。

 犬をかわいいと思う人もいれば、体がすくんで涙が出るほど嫌いな人がいる。十人いれば十色の好き嫌いがある。自分の好き嫌いを他人に強制しないでもらいたい。自分が考えていることを他の人も考えているということはめったにない。一人ひとり違うのだ。好き嫌いも、考えていることも。そのことを前提に、良い人間関係を築き上げていくことが大切なのである。