『茂手木伸夫』 のコラム -7ページ目

世界史が変わる、価値観が変わる

「世界史が変わる、価値観が変わる」

 それにしてもすごい勢いだ。2008年。絶対、記憶に長く残る年になる。本当にすごい。これでもかこれでもかと。なに?・・・プロ野球のある金権球団(巨人軍)のメイク・ナントカだって。あなた、なにを言っているの。そんなことはすぐ忘れられてしまうよ。少なくとも僕は忘れます(笑)。2008年が人類の歴史にとって長く語り継がれるのは、金融危機がすごい勢いで進行し、恐慌が始まった年としてだろう。けっして金満球団が我が愛すべきタイガースを大逆転したからではない。・・・もういい加減に野球の話題は止めようね(笑)。

 9月29日 ニューヨークの株式市場。777ドルの急落。トリプルラッキーセブン。

一体、誰にとってのラッキーセブンだろうか。

 昨年のサブプライムローン問題からさまざまな研修で「時事講話」と題して、主に経済問題を中心にお話している。サブプライムから原油高、穀物高騰、日本の不動産価格の下落などが今年の前半の話題で、テキストは毎月1回の更新で済んだ。が、9月以降は毎週のテキスト更新を迫られている。それだけ動きが早い。まさに激流だ。すごい勢いで世界中のお金がブラックホールに吸い込まれている。この間、1年3ヶ月で世界中のお金から30兆ドル(3000兆円)が消えた。日本の国家予算(一般会計の歳出規模)83兆円のナ、ナ、なんと36倍のお金がパッと消えてしまった。


 まだまだこのあとには、C・D・Sが控えているという。C=クレジット D=デフォルト S=スワップ 債権破綻保険が60兆ドル(6000兆円)の残高で控えている。債権破綻保険とはリスクを回避するために開発された金融商品の中でも、企業の債務不履行(デフォルト)を対象に。要するに「企業が倒産し借金が棒引きになるかもしれないことに対する保証・保険を金融商品化したもの」ということだ。本当に金融商品化だとか証券化だとか、素人(しろうと)にはわかりづらい。何でも金融工学とか言って理科系の頭のいい奴がいろいろ数字をこねくり回して、挙句の果ては自分でも何がなんだかわからなくなっているのが金融商品らしい。ともかく、世界には金融機関のお互いの倒産が怖くて互いに保険を掛け合っている。その残高が6000兆円あるという。金融機関同士の疑心暗鬼を生み、互いの信用不安から信用収縮が極端にすすんでいるそうだ。

 アイスランドやハンガリー、ウクライナなどが国家破綻直前だとか。まだまだ破綻国家予備軍はアルゼンチンやなんとオーストラリアやニュージーランドも含まれるそうだ。こうなりゃ世界的な歴史的な「大恐慌」と言っていいのだろう。

 

 先日、新聞で懐かしい名前を見つけた。ポール・サミュエルソン教授。インタビュー記事が朝刊に載っていた。もう40年も前の経済学の教科書的な人だ。私も学生時代に著書を読まされた覚えがあるし、新聞や雑誌に良くその言説が取り上げられていた。率直に「まだ生きていたか」と名前を見たとき感動した。93歳だそうだ。現在進行中の金融危機から世界大恐慌への流れを痛烈な批判をこめて解説していた。レーガンからブッシュに流れるアメリカの「市場原理主義」や「極右サプライサイド(供給重視)経済学」重視の政治路線が「悪い規制緩和」や「無能な人物の登用」と重なって今回の事態を招いたと。「悪魔的フランケンシュタイン的怪物のような金融工学」がこの危機を深刻化させたと厳しく皮肉を利かせて指摘している。

 

 1980年代のレーガン大統領、サッチャー首相、中曽根総理大臣たちが、規制緩和を叫び市場経済主義的な経済運営に舵をきった。そして21世紀に入って、ブッシュ大統領、ブレア首相、小泉総理大臣がその路線を引き継ぎ、拡大させ、世界の富の極端な格差を広げ、そして「破綻」させ、市場万能の「新自由主義」の終焉を迎えたということか。

 そこで、昔の名前が出てくるのだろう。懐かしい「ケインズ」経済学の復活か。サミュエルソンの名前を見てそう感じた人も多いだろう。確かに、1929年の世界恐慌のときはルーズベルト大統領がケインズの経済理論を元に「ニューデール」政策によって国家の管理による経済運営を強力に推し進めて、大不況を克服した。果たして21世紀の大恐慌に同じ手が使えるのか? アメリカはものづくり(製造業)を他国に依存して金融で成り立つ国を作ってきたから、そう簡単に克服できそうに見えないのだが。

 ある人はこんなことまで言っている。「18世紀からの大英帝国の世界制服から始まり、アメリカへと引き継いだアングロサクソンとユダヤの世界帝国の終焉」だと。とすれば3世紀にわたっての世界秩序の転換だということか。

 

 啓蒙思想やフランス革命によって準備されたネイション・ステイツ(国民国家)の国境が、経済のグローバル化によってまったく意味の無いものとなった。金融危機がそのことを見事に証明している。これが21世紀の金融破たんと恐慌の持っている意味かもしれない。なにか、世界史の転換点を感じる。このことは価値観の転換に結びつくのではないだろうか。価値観・・・人生観、社会観、経営観、働き方の価値観、家族観、人間観、お金の見方、教育観・・・さあ、どのように変わるのだろうか。毎日の世界の動き、経済や社会の動き、世界の若い知識人の発言や、世界の若い政治家の動向などを、注意深く、好奇心旺盛に、アンテナを張り巡らし、自らをその渦の中においてよく観察してみよう。不況を克服し勝ち残るヒントがちりばめられているかもしれない。いや、必ず次の時代を創りだす原動力がそれらのなかから見つかるはずだ。

劣化していく日本社会

   「劣化」していく日本社会


「バレなければ良い」が蔓延している。偽装とごまかしの垂れ流し。中国のメラミン入りの粉ミルクにも驚かされたが、日本の事故米偽装も大変なものだ。中国の毒入り餃子や中国産の食品の安全を問題にして、「だから中国は・・・」と批判していたら、足もとの日本もすごいことになっている。


 ここ2~3年のニュースにどれだけ「バレなければ良い。」が出てきたか。マンションの耐震偽装、牛肉ミンチの偽装、賞味期限のインチキ、牛肉やうなぎの産地のごまかし、老舗料亭の目茶苦茶、あ~あ!たくさんあって、もういい加減にしろと言いたくなる。というより、もっともっとありそうだ、とも思うが。

 これだけ偽装やインチキが続くということは、やはり日本の社会が「劣化」しているからなのか。道具は長年使っていると「劣化」する。金属疲労で飛行機の事故も起きる。同じように社会も「劣化」する。組織は、もちろん「劣化」する。企業もそうである。長年プロ野球を愛し続けているが、プロ野球球団もよく「劣化」する。そして、「再生」もする。劣化―再生の繰り返しだ。フロントの交代や監督の交代によって、組織のイノベーションが起きることが劣化と再生の繰り返しを生み出すのだろう。血の入れ替えにたとえられる、外部からの監督の招聘などがいい例だ。外部の力で一気に劣化した組織の再生を目指すということだろう。まあ、再生に成功したり失敗したり、とさまざまだろうが。

 9月のある日の研修でのこと。丁度福田前首相の「私はあなたと違うんです」退陣の次の日だった。号外も出て、新聞やテレビで大騒ぎしているのに、研修受講者のうち三分の一はこのニュースを知らなかった。20名のうち、この退陣問題に興味があると答えたのはわずかに5名だった。


 自分の身の回りのことに興味が湧くのはあたりまえのこと。仕事でも自分の属している業界のことや自分の会社のこと、自分のスキルアップのこと、興味もあるし関心もある。あたりまえのことだ。でも、政治や社会のことには興味や関心もないのだろうか。少なくとも関心を寄せるのは社会人としての「責任」だと思うのだが。やはりこれも社会の「劣化」のあらわれなのか。

 それにしても日本の政治の「劣化」現象はどんどんすすんでいるように見える。麻生新内閣の閣僚18名のうち11名が二世、三世議員だとか。安倍、福田、麻生と三代に渡って元総理大臣の子や孫だ。日本は貴族制の社会かと外国では誤解されるだろう。政治の支配層がこのように世襲を繰り返しているのは正常な民主主義ではありえない。

 私は何が何でも世襲が悪いとは思わない。優れた2代目、3代目の企業経営者を多く見てきている。中小企業では止むを得ずの世襲も多いのだが、相続時にけっしてプラスの遺産ばかりではないのである。先代の残したマイナスの遺産をプラスに変えるだけでも大変な能力と頑張りが必要とされる。そして優れた後継者は何らかのイノベーションを組織に起こしている。新たな事業の展開や組織の根本改革など、自ら困難にチャレンジする姿勢を見せている。甘えなど微塵(みじん)も無い。

 しかし、政治の世界での2世、3世議員の多くは、後援会など既存の地盤の力で持ち上げられ、最初からプラスの状態で選挙を戦う。これでは困難にチャレンジするというより楽な道を歩んでいるといわれてもしょうがないだろう。政治家の世襲はその属している組織の「劣化」を引き起こす。なぜなら、集団として世襲議員が多いということは独特の「甘えの構造」をその組織に蔓延させる、と思うからだ。組織としての「甘えの構造」は日本独特の「阿吽(あうん)の呼吸」や「言わずともわかる」などという「和をもって貴しと成す」の世界でますます増幅される。そして、内向きの、仲間内の狭い社会を形成する。

 これでは、政治が「劣化」するのはあたりまえだ。

 この仲間内の狭くて甘い組織は「バレなければ良い」という組織に転化し、「バレないようにみんなでごまかせ」という組織に進化する。

 優れた後継者の頑張っている企業も、やはり組織の「経年劣化」は避けられない。次から次へとイノベーションの仕掛けづくりをしていかなければならない。企業経営は不断の革新事業なのだ。これは経営者だけに言われることではない。企業のなかでひとつの組織を任されている管理職にもいえることだ。自分が任されている組織に「甘えの構造」は無いだろうかと、点検は常に必要だろう。「阿吽の呼吸」や、まずいことがあっても「知らないことにしておく」などが蔓延していないだろうか。

 組織を「劣化」から救う方法として、「抜け駆けの功名(こうみょう)」を薦める。映画「7人のサムライ」で菊千代の抜け駆けを勘兵衛がたしなめる場面がある。『抜け駆けの功名は手柄にあらず』と。確かにそうだろう。しかし、劣化しつつある閉塞した組織を再び生き返らすには、思い切った「抜け駆け」を認めても良いのではないだろうか。「抜け駆けの功名」を叱責しながら奨励する組織、部下の功名心を掻き立てるリーダーの役割があっても良いのではないだろうか。もちろん部下の功名は部下の手柄。自分の手柄にするなど「言語道断(ごんごどうだん)」。


「たけなわから祭りのあとへ」・・・星野ジャパンの敗因についての考察

「たけなわから祭りのあとへ」  星野ジャパンの敗因についての考察

 8月は「たけなわ」という言葉が似合う。たけなわ・・・漢字で書くと酣・・・ 暑さは今がたけなわとか、高校野球がたけなわとか そして今年はオリンピックがたけなわだった。

 広辞苑で酣(たけなわ)の意味を調べると①物事の一番の盛り。真っ最中。という記事に続いて、②少し盛りを過ぎたさま という意味もあることが書いてある。宴会の楽しい雰囲気も「宴たけなわではございますが・・・」などという挨拶で〆(しめ)となると少し物悲しい気持ちになる。盛りの頂点に立つということは物悲しさも含んでいるのだな。あとは降りるだけ、下がるだけという意味で。

 やはり書かずにはいられない。オリンピックでの野球。韓国との準決勝で負けが決まったときに「宴たけなわではございますが・・・」というフレーズが私の耳の中で響いていた。そして、3位決定戦では「マツリガオワッタ・・・祭りが終わった」と頭の中で、秋の虫が甲高い声で鳴いていた。「オワッタ・・・終わった」そのあと感情の整理に1日間と理性の整理に1日間、たっぷりかかった。たかが野球なのにね。

 子供の頃から野球が好きだったね。もちろん身体を動かすより口を動かすことが好きだったので(子供の時から今もずっと)、もっぱら見るほう専門だったが。昔の後楽園球場に親父がつれてってくれたこと、いまだに忘れないな。小4のときに親父が死んでるから、2~3年生の時かな。すぐ上の兄と一緒に5月の5日のこどもの日だったな。連れて行ってもらったのは。大きな柏餅をオフクロが作ってくれて、こどもの日は内野自由席の子供料金が無料だったのだ。巨人:阪神戦。一塁側の巨人側は一杯だから3塁側しか空いていない。親父は巨人ファンだったな。川上を贔屓にしてたな。すぐ上の兄も巨人ファン。60歳になった今も巨人ファンだ。長島ファンだな、兄貴は。私は柏餅を頬張りながら、兄貴への反発もあって阪神を応援したっけ。これがそのあと50年近く阪神タイガーズのファンになるきっかけだったな。


 私が野球好きでプロ野球の阪神タイガーズ好きだと知っている人達から、星野ジャパンの敗因について聞かれることが多い。もちろん、専門家や評論家がいろいろ意見を言っている。当たっているのもあるだろうし、星野嫌いが好き勝手なことをいっているのもあるだろう。全部は目を通してはいないが、そのなかで非常に興味のあるコメントを見つけた。日本のアマチュア野球で長く代表監督をつとめた松永怜一さんの意見だ。松永さんは野球が五輪の公開競技だったロサンゼルス大会で金メダルを取った時の監督だ。星野ジャパンのコーチである田淵幸一や山本浩二を育てた法政大学の名監督だ。


 その松永氏曰く、「プロの選手は整った環境の中で、年間140回ほど限られた同じ相手と戦う。だが、五輪は違う。異なる野球文化を持った知らない相手と戦わねばならない。最後まで自分達の『箱庭」野球から抜け出せなかった。」と語った後、具体例として次ぎの事例を挙げていた。初戦のキューバ戦で星野監督が審判に猛抗議したシーンだ。これは国際大会に慣れている者には、考えられない行動だった、と指摘する。審判団は試合後に反省ミーティングを開くそうだ。そこで「日本はいったいなんなんだ!!」となったのは必至だという。「ストライクゾーンなど日本へのジャッジが最後まで辛めだったことは、決して偶然ではないだろう。」と語っている。又、次のような事例も語っている。「捕手のキャッチングひとつ取ってもそう。ゾーンぎりぎりの捕球時、プロの捕手たちは微妙に手首を内側に返してゾーン修正していたが、何気ないこの行為も、国際大会では審判の技能をばかにしたことになり、10人目の敵を作ることになる。」


 確かにそうだと思う。星野監督は「敗軍の将、兵を語らず」という態度だ。これは立派だし、潔いと思う。しかし、審判のジャッジについての選手の戸惑いを敗因に挙げていた。このことは松永氏の指摘を聞くまでもなく私には強烈な違和感を感じさせずにはおかなかった。それだけでなく、軽蔑に似た感情も湧き上がってきた。結局は、国際試合に対する理解力が不足していたのだろう。他者理解の不足。異なる野球文化を尊敬し理解する気持ちなどなく、ただ闇雲に「日本の野球が一番だ」という根拠のない迷信にすがっていたのだろう。


 8月の15日は終戦記念日だ。何かあの15年に渡る日中戦争から太平洋戦争の多大な犠牲を生んでの敗戦とオーバーラップするのだ。「金メダルしかいらない」という傲慢な発言と「神国日本。負けるわけがない」と通じるものがある。それは、ダレも責任を取らない日本の野球の機構の問題と戦争の責任とも重ね合わせられるのだ。誰が、どの組織が星野氏を監督に選んだのか。五輪の野球は「日本野球会議」などという組織が公式に機能していた組織らしい。でも、あのナベツネさんが「星野がいい」といったことから始まっているのはみんな知っている。要するに、ダレが責任を取るのかはいつも不問のままだ。だから、この敗戦の経験を次に生かすことなどできない。傷ついたのは選手であり、全国の野球ファンということになる。


 景気が急速に悪くなっている。中小企業ではバブル崩壊後の大波以上の危機感が蔓延している。それも急速に。サブプライム問題や原油高、資源高の影響か。海外の景気回復頼みで打つ手がない。これも「祭りのあと」の様相だ。


 最後に一言。「人工芝のドーム野球場」が敗因の一番。2番は「大手新聞社が興行している高校野球」にある。異見をどしどし下さい。