7月のコラム 「歴史と視 点の自由」
「歴史と視点の自由」
歴史が好きだ。高校時代の世界史の授業が面白かった。ワクワクして授業を受けていた。世界史や日本史が好きな教科だというと、記憶力がいいのですねと言われたりした。年表を記憶するのが歴史の勉強と勘違いされていたのだ。本人はいたって記憶力が悪い。昔から覚えが悪く、最近はつい昨日の夕飯に何を食べたかも忘れてしまうことがある。なんだって。・・・老人性痴呆の始まりだって。・・・・はぁ~・・かもしれない。
歴史は好きだが、何年に何が起こった、なんて記憶していることはまずない。「イイクニツクロウ、カマクラバクフ」1192年鎌倉幕府が始まった。これくらいしか記憶はしていないのだが。
ローマ帝国の始まりから終末まで描いた塩野七生さんの「ローマ人の物語」は全15巻。3回読み直した。最近ではユーラシア大陸の興亡史、匈奴(きょうど)やモンゴルなどの遊牧民の歴史が面白い。ソビエトが崩壊して中央アジアの歴史的な文物の発掘がすすんでいる。新しい発見も多くあるようだ。もちろん中国の歴史も興味がある。何しろ三国志のゲームに嵌(は)まったひとりである。KOEI(コーエー)さんのおかげです。だから「信長の野望」も、もちろん嵌(は)まったから、日本の戦国時代も興味が尽きない。
今、面白いのが「興亡の世界史」というシリーズ。講談社が一昨年から発刊しているシリーズ物だが、面白い。新しい視点が随所に出ている。読みやすいし、学術的な本じゃないから「ワクワク」感もある。5月に出た「12巻 インカとスペイン 帝国の交差」を昨日、読了したばかりだが、考えさせられたな。南米のアンデスに高度な文明を誇ったインカ帝国やメキシコの高原に文明を築いたアステカ帝国などは、スペインに15~16世紀に滅ぼされた。今までインカ帝国の歴史を学ぼうとしても、インカは文字を持たない文明だから、征服したスペイン人の眼から見たインカの歴史しか語られてこなかった。これは、ある意味仕方がなかったことだろう。何しろ文字がないのだから。歴史とは文字の記録なのだから。でも、スペイン語で書かれたインカに関するさまざまな文書などを丹念に読む中で、征服者側から見た歴史ではなく、征服される側から見た歴史も明らかになってきている。それに、最近の考古学的発見も続いている。インカの例を見るまでも無く、歴史とはどの立場で見るかで大きく内容が変わるものなのだ。
中国の歴史がその良い例である。いつの時代でも公式の歴史書は新しい権力側から見た前の時代の歴史なのだ。当然、今の政権の正当性が描かれている。前の政権がとてもひどい政権で、人民を苦しめ、天の怒りを招いたか、が描いてあるのが中国の歴史書だ。常に勝ったものの視点で描かれている。でも、これは中国だけのことではない。
日本でも幕末から明治維新にかけての歴史が、長年にわたって「勝った側」から見た歴史になっている。いわゆる江戸時代の歴史が、江戸幕府を倒し明治政府を樹立した薩摩や長州の視点から書かれていることが多いのだ。これは、「鞍馬天狗」などの大衆的な読み物や映画にもつながっている。江戸時代は封建的で自由はまったくなく、暗く、幕府の高官は馬鹿で、それに引き換え、鞍馬天狗などの尊皇派はかっこ良く描かれている。まあ、明治政府の流れが、今の政府にも脈々と受け継がれているから、どうしても明治が良くて江戸が悪いというイメージがついて回るようだ。
だが、最近はいろいろな意味で「江戸時代の再評価」がすすんでいる。たとえば、少なくとも270年間にわたって平和な時代を築いた江戸時代は、明治以降のわずか80年の間に日清、日露の戦争から第1次大戦への参加、日中戦争から太平洋戦争、そして破滅的な敗戦と戦争続きの時代より「まし」に決まっている。特に江戸(現在の東京)は、世界でもトップクラスの人口を抱え、平和で、清潔で、飢餓も無く、自由な(時たま規制されたが)、文化が花開いた。その当時のヨーロッパの都市と比較しても優れた大都会であった。幕末に来日したペルーやハリスらの目にも成熟した社会としての江戸時代の人々が映っていた。勤勉で笑顔を絶やさない人たち、清潔な衣装を着て、威厳を感じさせる人たち と当時の日本人を描いている。(参考文献 井上勝生著 幕末・維新 岩波新書)
どうも、私は江戸が好きなのだ。落語が好きだし、江戸蕎麦も大好きだし、歌舞伎も好きだ。だからというわけではないが、最近の江戸時代の再評価の動きが大変面白い。明治以降の勝った側からの歴史の見方ではなく、事実を掘り下げていく見方がやはり大事なのだ。1990年代に崩壊したソビエトなどの社会主義国家が「唯物史観」の考えで、決まり決まった歴史の見方を押し付けてきた。これも今ではまったく力が無くなった。だいいち、何々史観などという歴史の見方がおかしいのだ。唯物史観や皇国史観など、色眼鏡で歴史を見るのではよくない。「こうあるべきだ」と前の時代を見るのではなく、自由な視点から見ることが大切なのだ。
人の見方も「こうあるべきだ」と見てはいけない。人を、タイプ別に分けて、接し方や管理の仕方、営業の仕方を教える研修がある。私は否定的である。100人の人間がいれば100人のタイプがあるのが人間だろう。それを無理やり4つか5つのタイプに分け、タイプ別の関わり方を身につけたら、「思い込み」がまさって、自由にあるがままに見れなくなるのではないだろうか。わざわざ視点の自由度に制限をかける必要は無いのではないだろうか。
歴史も、社会も、人も、自由な視点で見ていきたいと思う。 歴史は変えられないが、社会は変えることができる。人は自分で変わることができるのだから。
6月のコラム(1) 仮説検証 「電車内で化粧をする女が増えているのは なぜ?」
仮説検証 「電車内で化粧をする女が増えているのは なぜ?」
先日、ある会社の「コミュニケーションスキル」の強化研修で、最近の人間関係事情を考察するとして、いくつかの設問を出した。そのうちの一つが「電車内で化粧をする女が増えているのはなぜ?」というものだ。研修に参加した方々からいろいろな仮説を出していただいた。いくつか面白い、そして考えさせられる仮設が出た。
私がまず驚いたのが、「皆がしているから・・・私も、と増えているのではないか」という仮説。そうか、珍しくないのだよね。車内化粧は。バスの中でもスタバの中でも、もちろん電車の中でも、すいていても混んでいても、皆やっているものね。もうあたりまえになっているのだ。それを見ている人の意識の中でもあたりまえの風景なのだ。もう。これと同じような仮説として、流行になっているから、とか、都会の風習が広がっているから、というのもあった。なるほど。車内化粧は流行なのか。流行をとっくに過ぎてあたりまえの行動になっているのだね。
「きれいな私をみて! 一種の自己顕示の表れではないか」という仮説。化けることは恥ずかしいことではないのだね。ある一種の表現行為なのかな。顔を創り出す創造性豊かな行動で恥ずかしいことではないのだろう。逆に誇らしいことなのかもしれない。でも、ヨーロッパでは人前で化粧するのは商売女であるといわれているらしい。ヨーロッパでは看板を掲げることなのだ。日本の若い女性も何か別な看板を掲げているのだろうか。
私は「車内化粧をする女性」を見ると、つい見とれてしまう。別に嫌悪感を持ったこともないし、マナー違反だとも思ったこともない。ただついつい見とれてしまう。というのは女性の真剣に化粧している姿を見たことがないのだからあたりまえか。意識を集中して鏡をのぞく眼。一心不乱とはこのことだ。アイラインを入れるとき、揺れる電車の中で、まさに神業。気がつくと口をあけて見とれている自分がいる。恥ずかしいのはこちらのほうだ。
「他人を完全無視できる習慣」があるのではないかという仮説。確かに車内化粧する人たちに、車内のほかの乗客=他人を意識したそぶりは見られない。そばにいる他人を完全無視できることとはすごい能力だ。私には絶対できない。電車内だろうがコーヒーショップだろうが、周りの人たちが気になって仕方がない。もちろん本を読んでいるのだが、集中度はせいぜい6割ぐらいであとの4割は周りの人たちに向けられている。完全無視できるということは化粧に集中しているからか。何か特別な努力が要るのだろうか。断っておくけど、今回の研修の参加者は全員が男で、女性が一人もいない。仮説など考えないで車内化粧する若い女性に聞きに行けばいいのだね。
もう一つ、「世間(せけん」」の考え方が大きく変化してきたのだろうという仮説を出した方がいた。他人を完全無視できる習慣とは「世間」を無視することだろう。「世間」を意識しないですむ、ということが現代の特徴なのか。私は良く親から『「世間」様に申し訳ないことはしないでおくれ』とか『「世間」から後ろ指をさされるようなマネはするな』とずいぶんと言われて育った。「世間」って何だろう。子供の時は「世間」とは近所のことだと思っていた。だから親が言う「世間」とは近所の人たちだった。母親が毎日の買い物に行く時に会う人々、知り合いの近所の人たち 学校の人たち、などが「世間」だと思っていた。でも「世間」は年齢とともに広がっていった。「世間」がひろがりが「社会」になった時に、私は大人になったようだ。現在、「世間」はどのような機能を果たしているのだろうか。
たぶん、これは私の仮説だが、「世間」の距離感が昔と変わってきているのではないか、と思っている。どんどん狭くなって「世間」がごくごく身内の知っている人たちのコミュニティーとなっているのではないか。顔を合わせるだけの良く知らない人はこの「世間」の中に入らない。自分とその周りの限られた範囲が羞恥心をはじめとした感情を感じられる人たちで、それ以外のすべてが感情の起きない記号としての「ホモサピエンス」なのだ。だから、「世間」が広がっていった「社会」との接点も極端に弱くなっているのではないだろうか。このことは現代の若者の社会との関わり方にも影響を与えているのだろう。社会的出来事と自分との接点を見つけられない人が増えているのではないだろうか。今の日本は。
お隣の韓国では米国産の牛肉輸入をめぐって中学生や高校生をふくめた何万人もの人が集会をしてデモをしている。少なくても社会的出来事と自分との接点を持った若い人が多くいるということだろう。でも、日本ではこのようなことは起きるわけがない。ではなぜ、現代の日本では社会と個人と接点を見つけられない人たちが増えているのだろうか。
これは、本日の仮説検証の宿題だ。皆で仮説を出してみよう。
5月のコラム(1) 「あなたが監督だったら・・・」
「あなたが監督だったら・・・」
それにしても我がタイガーズは強い。久しぶりの開幕ダッシュであまりストレスがたまらない勝ち方をしてくれる。昨年はゴールデンウイーク中にまったく勝てずに、確か9連敗をしていたのではないかな。いてもたってもいられず神宮球場に駆けつけた記憶がある。負けが込んでくると私は夢想をする。「俺が監督だったら・・・」という夢想だ。なかなか寝付けない夜には監督になって翌日の先発とオーダーを決め、ついでに今後のローテーションを決め、ファームからの昇格を考え、などなどしているうちに眠りにつくことができる。
プロ野球やサッカーの監督に魅力を感じる人は多いはずだ。監督を経験できるゲームもたくさんある。そこで考えてみたい。あなたが監督ならこんな場面ではどうするか?
たとえば・・・
期待していた若いピッチャーが期待に答えられずにめちゃくちゃに打たれた。あなたは監督としてどんな言葉を掛けるか。
タイムリーエラーをしてきた野手がベンチに戻ってきた。監督のあなたはどんな言葉を掛けるか。
サッカーでも野球でも、もちろんどんなチームスポーツでも失敗やミスは必ず起こる。プレミアリーグのサー・アレックス・ファーガソン監督になってミスしてきたルーニーやクリスティアーノ・ロナウドになんという言葉を掛けるのか。想像してみたい。阪神タイガーズの岡田彰布監督に成り代わって(といっても岡田さんのあのコテコテ大阪顔にはなりたくないが)打たれて逆転をゆるした藤川球児にどんな言葉を掛けるか。
ベテランや実績のある選手がミスした場合と若手がミスした場合とでは掛ける言葉は違うはずだ。これはだれでもわかること。ミスや失敗をした相手によって掛ける言葉は違う。あたりまえのことだ。ミスを引きずるタイプもいればケロッとしているタイプもいる。あなたが監督でも相手のタイプを良く考え言葉を選ぶはずだ。でも、どんな場合でも、どんな相手でも言葉を掛けるのはあなた自身であることには変わりない。相手が変わっても言葉を掛ける監督はあなただけだ。
ドラゴンズの落合監督は投手交代の時、常に笑いながら自分でマウンドに行く。そして投手からボールを受け取る。タイガーズの岡田監督はコーチをマウンドに送って投手に声を掛けさせ、自らは審判に交代を告げベンチに下がる。まったく対照的な投手交代のスタイルだ。どっちがいいとか正しいとか言っているのではない。自分のスタイルを持っている。監督としての自分のスタイルとは個性であったり、らしさであったり、自分にふさわしい態度であったりするのだろう。このスタイルを確立することが部下の安心感につながるのではないかと考える。
ある会社で上司が部下の失敗をとがめている現場に遭遇した。その上司は私の目の前で、部下に向って舌打ちをし、ため息をついた。チェっという舌打ちの音が第3者である私の耳に今も残っている。ため息は「お前には何も期待できないな」という明確な意思表明になって聞こえてくる。舌打ちとため息を面と向って聞かされた部下の気持ちはどんなだろう。確かに失敗はした。ミスを犯した。でも舌打ちとため息で迎えられてはたまらないだろう。しかし、この迎え方がこの上司のスタイルなのだ。この人は大体このような態度で部下に接することが多い。
失敗してショボンとしている部下に、あなたはどんな言葉を掛けますか。今までどのようなスタイルで部下に接してきましたか。部下の成長と戦力化を望んだスタイルかどうか見直してみるといいのではないか。
最後に、昨年の台湾で行なわれた野球の北京オリンピックの予選。見事優勝して帰国した星野監督の当日のテレビでの発言。宮本のキャプテンシーの話や大村や新井、上原や岩瀬などの選手名を上げたあとに、3人のよく知らない名前を挙げた。三宅、福田、林、この三人の名前をあえてテレビで全国に知らしめた。これぞ星野監督をして名監督足らしめるスタイルなのだろう。縁の下の力持ち、スコアラー3名の名前を挙げる星野さんにはなんとしても北京で金メダルを取ってきてもらいたい。