21世紀に開花する革命のイメージ | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 命題として「トップ8人に独占されている36億人分の富(資産)をシェアさせる」ということが、この歪つな地球上での人類の生活の課題であることは、どうやら見えてきたと思います。

 

 つまり、「何をするべきか」(W)は、はっきりしているのであり、問題は方法(H)ということではないか、と私は思います。

 

 どうやって、8人から、少なくとも35億9982人分を分させるか?

1、      説得する。

2、      法律で累進課税を決める。

3、      力づくで奪う。

 

辺りが、大きく考えられるが、傾向性からすると説得はまず、難しそうです。「ああ、そうか、オレ確かに持ちすぎてるよな、自分で使いきれないわ。だから、みんなに渡そうかな、自分の分以外は」ってな具合に納得するとは思えません、多少、「宣伝」(ないしは節税)になる限度の「寄付」はするでしょうが。

 

 では、ピケティなどいう累進課税ですが、かつて累進課税が、どんどん崩れていくのが20世紀後半の新自由主義の歴史と方向だったことを考えると難しそうですし、今の政府が議会制民主主義とマスメディアを使って支配をしながら、「資本」のエージェントとして役割を果たしていることからすれば、極めて困難、だと思います。

 

 では、力づくで奪えるのか。誰が誰から?99%側の私たちが1%の資本から。数でいえば、勝ちそうです。いや、絶対勝つでしょう、ここはポイントですね。現在、「合法」という形で「暴力」は1%側に独占されているわけですが、「合法」は「正義」でも「倫理」でもありません。

 

 おお、では、暴力で奪うのか?!ということですが、そもそも暴力とは、どう使うべき(コントロール)ものなのでしょうか。

 

 「革命」の現実は、必ずしも圧倒的な暴力の行使ではありません。典型的なのは100年前のロシアでの10月革命の現実ですが、ほとんど、血は流れていません。

 

 なんか「革命」って、歯を食いしばって、後塵を拝して、後戻りできない決意をもって、自己犠牲的で、そして暴力的で、気合いこそ命、みたいな世代はまだ残っていると思いますが、残念ながら、その革命イメージには、すでに革命的イメージがありません。古いし、旧いと思います。

 

 革命が革命であるのは、その時代において革命的だからであって、どこか旧世代を置いていく、つまり、私を置いていくような新しさ=理解できない新しさ、を持っているのだろうと思います。

 

 その意味で、その意味の限りにおいて「自分たちの若い頃と違って、近頃の若いもんはダメだな」が反面的に肯定されるのであり、そう思える若者が存在し、何か理解しえないものを起こすのが「革命」のチャンスなのだと思います。

 

 この期に及んで、旧世代がギリギリ、「革命」に貢献できるのは、それでも、「若者」に自分の知識を、そこで得た思想を披瀝し、批判を受けようとぶつけることでしょう。いや、徹底的に批判を受けるぐらい何かを発信するしかないでしょう。「わかってないなあ」とか「頭固いなあ」とか「おわっているじゃん」とか「前世紀の遺物」とか「昭和かよ」とか・・・ね。

 

 革命のイメージ。暴力のイマジネーション。そこに対して、私は何ができるのか、できないのか。

 

 とてつもなく新しいイメージ=手法、まさに革命的な革命。そんなことが近々、待ち受けているような気がします。現体制=資本主義は限界なので、どう考えても。だからこそ、あらゆる世代が言いたいこと、言いつづけましょう!