決してデモに参加しない人にとっての「表現の自由」「国民主権」 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 先日行われた吉祥寺での「11.20天皇制いらないデモ」の先導車が襲われ、警察はその「暴挙を見て見ぬふり」(東京新聞11/23)とのこと。

 怖いですねえ〜。デモなんて、やっぱ怖いんですねえ。ましては天皇制いらないなんて、ヤダヤダ〜。

 

 ところで、現行憲法には、その21条において、

 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

と規定されています。憲法学者は、この表現の自由は非常に重要な人権で「優越的地位」がある、などといいます。

 

 集会、結社、ですよ、アナタは集会ないしデモ、それから政治団体への関与したことありますか?それが表現の自由ですよ?

 生まれてから一度も、この優越的地位のある「表現の自由」を行使したことがない、という人も案外多いと思います。

 

 つまり、その重要な憲法の「表現の自由」というのは多くの人には一生無関係だったりするわけです。(ちなみに通信の秘密なんて、もはやパロディのよう)

 

 「いやいや、俺はあえて、いろいろあって政治的なことは口にしないけどさ、誰かにとっては大事でしょ」・・・なんていうのは結局は「自己欺瞞」であり「ごまかし」であり「言い訳」でしょう。やはり、自分が主体的に行使しない権利・自由は関係ない、ということだと思います。

 

 「だからさ、俺は、俺の言いたいことは言ってますって。別に天皇制とかは特に関心ないし、朝鮮侵略戦争なんて何も知らないから何も言えないってだけ。特に言いたいことがないだけだよ。俺は俺の自由はきっちり行使していますよ。」・・・なんていうのは「おアイソ」にもならないでしょう。

 

 つまり新自由主義的想像世界は本質的に「自律性」と「個人的自己充足性」から成っているということ−を議論してもいいだろう。この堅い核はわれわれの精神構造のなかに奥深く入り込んでいて、現代の個人が自分自身と自然発生的に関係するとき、自分を自由意志の持ち主で自己決定の能力を持っていると見なすのはそこに由来するのである。・・・一見反新自由主義的言説を行い、新自由主義の枠組みから自らを解放するための反新自由主義のたたかいに自らが参加していると思い込んでいるときでも、そのことにかわりはないのである。(『私たちの“感情”と“欲望”は、いかに資本主義に偽造されてるか?』フレデリック・ロルドン)

 

 つまり、自分で自由なんて思っているなんて、この新自由主義世界では、ただの思い込みだ(いや、私だって)っていうことだと思います。本当に(本当の意味で)自分の殻を破ってこその自分の「自由」でしょう。

 

 だいたい「反天皇制」なんて別に当たり前の発想じゃないですか。むしろ、憲法で1条が国民主権の根拠規定なのに、その文言自体は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という、天皇の規定として存在しているなんて、相当、屈辱的だと思うんですけど? 

 

 差別はよくない、という人は「天皇」という人間についての憲法上・政治上・社会上の扱いはなんだと見ているのでしょうね?

 

 ともかく、表現の自由とは、ギリギリの自由であり、権利であり、それを行使するものが権力や「常識」と切羽の鍔迫り合いを−つまり具体的には弾圧−を覚悟せざるをえない状況を引き受けることであり、その経験を回避する人にとっては表現の自由、そして国民主権も「画餅」にすぎないでしょう。

 

 そんなの怖いし、やりたいテーマもないし、なおさらデモとか集会とかメンドくさいし、他にやり方あるんじゃね?的な人たちの「表現の自由」や「民主主義」を回収して集めて、きっちりこの時代に言うべきことを表現している−天皇制いらない、北朝鮮侵略戦争反対−にシェアしたいくらい。

 

 でも、せっかくだったら、アナタ自身の表現の自由を行使してみませんか?と思います。