『全体主義の起源』を読み直す・・トランプの排外主義を打倒するために | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 「ファシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の興隆に特徴的な点は、これらの運動が政治的には全く無関心だと思われていた大衆、他のすべての政党が無能か無感覚で相手にならないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである」(『全体主義の起源3』ハンナアーレント)

 

 トランプ次期大統領の当選は、一つは声なきアメリカ大衆の「現状」への怒り=ヒラリーに代表される新自由主義的現実への反発だ、という見方は、むしろ定着しつつある、と思います。階級的時差とでもいえるような、トランプ当選で「世界秩序どこへ 世界が壊れていく」(朝日11/10)と見出しをつけてしまうメディアが露わにした「すでに」壊れているからこそトランプ当選という結果になったのだという「99%側の現実」と「1%側の認識」の乖離は「立ち位置」というものをまざまざと見せつけたと思います。

 

 この99%の怒りと不満の大きさは、排外主義的言説を弄したトランプにさえ流れてしまうほどのものである、というのは、1930年代のナチス・ヒットラー現象に対比して警戒する必要があるでしょう。

 

 トランプ氏は「奇妙なほどのブレなさ」(アエラ11/21)としてメキシコとの間に「壁を作る」などの「暴言・放言」を言い続けました。それは「お決まりのフレーズを打ち出して観衆が盛り上がるという、お得意のテレビショーを見ているようだった」とのこと(同書)。

 

「・・・大衆は目に見える世界の現実を信ぜず、自分たちのコントロールの可能な経験を頼りとせず、自分の五感を信用していない。それ故に彼らにはある種の想像力が発達していて、いかにも宇宙的な意味と首尾一貫性を持つように見えるものならなんにでも動かされる。事実というものは大衆を説得する力を失ってしまったから、偽りの事実ですら彼らには何の印象も与えない。大衆を動かし得るのは、彼らを包み込んでくれると約束する、勝手にこしらえ上げた統一的体系の首尾一貫性だけである。あらゆる大衆プロパガンダにおいて繰り返しということがあれほど効果的な要素となっているのは、大衆の呑み込みの悪さとか記憶力の弱さとかの故ではなく、単に論理的な完結性しか持たぬ体系に繰り返しが時間的な不変性、首尾一貫性を与えてくれるからである。」とはアーレントの指摘です。

 

 私たちが、今、改めてに、鋭敏にならなければならないのは、「メキシコ人は麻薬や犯罪を持ち込む」とか「イスラム教との米国への入国を全面的かつ完全に禁止する」などといったトランプ氏の発言が、曲がりなりにも「支持」されてしまったということは歴史的に要注意である、ということです。

 日本における関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺もしかり、ナチスのホロコーストもしかり、民族・人種差別に基づく恐ろしいヘイトクライムは「現実に起こったこと」であり、「決してありえないこと」ではない、ということです。

 

 アーレントは「こんなことがあってはならなかったのだという驚愕は、われわれにはこれを償うことができないということではなく(なぜなら、人間が現実に行動する場合、償いなどということはそもそもできるはずがないからだ)、これについて責任を負うことができないということを意味している。政治的には一国の政府はすべてその前任政府のおこなったことについて責任を負う。それがなかったことにしようと努める場合にも、それについての責任は負わなければならないのだ。そのような引き継ぎなしに歴史の連続性というものは存在しないだろう。人間的にはわれわれは広く、われわれが知らず、また手もかさぬうちに人間がこの世界のどこかで犯した罪についても責任を引受けねばならない。そうでなければ人類の統一性というのは存在しまい。」と厳しく私たちの責任を指摘しています。

 

 私たちは「評論家」でも、「観察者」でもありません。高みの見物を決め込むことができる人は一人もいないはず。貧困と格差の激化により現状に憤激の感情を持つ大衆(私自身が)が、その選択肢のない中、「出口」を求め、強烈な選択を受動的に求めることは「すべきこと」ではないにせよ「ありうること」です。

 しかし、その現実自体は受け止めるとして、「差別と排外主義」を肯定してはならない、仕方ないことと容認してはならない、単なる「放言・暴言」と警戒を解いてはならない、ということだと思います。原則的に行動するときです。

     反トランプデモを行うアメリカ大衆と連帯しましょう。