ジミヘンドリックス・エクスペリエンスは、ジミ(アメリカ黒人(実際もっと複雑))のギターとミッチ・ミッチェル(イギリス白人)ドラムとノエル・レディング(イギリス白人)のベースのトリオであり、時代を切り開いた画期的なロックバンドです。
しかし、このバンドの中でも二人の白人がジミに対し「ニガー」だとか、「クーン」だとかふざけて使っていたそうです。当時のイギリスはアメリカと異なり、まだ、「黒人」は、珍しい「外国人」だったので、悪意はなかったとのこと。
「要するに、ノエルもミッチェルもアメリカの黒人が何を不快に感じ、何なら平気なのかなど、これっぽちも考えなかったということだ。そういう言葉がどれほど深く人を傷つけるか、思いやる気持ちがほとんどなかったのだ。もしそんな気持ちがあったなら、そういう言葉をそんなふうに平気に使えはしまい。その場で問題にしたにせよ、しなかったにせよ、ヘンドリックスがそういう発言を忘れるはずはなく、それは彼がふたりとどんどん疎遠になっていった原因の一つに違いない。」とチャールズ・シャー・マリーという人は指摘しています。(『ジミ・ヘンドリックスとアメリカの光と影』)
ヘイト・スピーチ法の成立、そして、今般の差別発言・排外主義発言のトランプ氏のアメリカ大統領当選などにより、今年は「差別」に焦点が当てられていると思います。
法規制での「差別」の規制には国家権力の濫用の怖れが懸念されるし、トランプ当選の背景にはアメリカの民衆の不満の爆発という側面が認められるとは思いますが、現実に、そこにある「差別」を許すことはできないでしょう。
アメリカの大衆の怒りと「やむを得ない選択」には連帯したいですが、そこに分断政策の影響としての「差別」があるとすれば、それは克服する必要があると思います。
実際、「差別」は、そこここにあり、私の中にもあります。「差別」とは、個体をみない「範疇化」=カテゴライズだと思いますが、それはある種、判断を省略し楽をするための「知恵」なのだと思います。「差別」から全く自由な人は稀でしょう。
エクスペリエンスの中での「他意のない」差別だろうが、思いっきり悪意のある差別だろうが差別は差別であり、時に関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺のように差別が殺人に至ることはあるわけです。もちろん、ナチスのユダヤ人「ホロコースト」しかり。
ジミがノエルやミッチェルに「差別はやめてくれ」とはなかなか言えなかったのかもしれません。差別の対象とカテゴライズされる側の人間に、そんなことを言え、言わなければわからないじゃないか、なんて期待するようでは、どうしようもないのでしょう。
いろいろな差別はありますが、自分で選択のできない民族・人種差別については、特に「意識」する必要があります。
しかし「よく知らなかったからさあ」ではすまされないのです。差別される側は傷つき、ずっと覚えていて、澱のように溜まるのです。
どうしたらいいのか。とりあえず、差別は瞬間的に露見するものだと思います。「差別はいけない」、その一般論は誰もが肯定しますが、いざ、という時に結局問われます。1923年9月、皆が「朝鮮人を殺せ」と叫んでいる時に、「そんな差別はやめろよ」と言えたのか、言えるのか、という問いを我々は繰り返し自問する必要があると思います。