「ボランティア」の行き先について | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 かつて、私は、ホームレスと呼ばれる人々を支援する運動の先駆けとして、ホームレスの皆さんの法律相談会を開始ししました。基本的には、たまたま90年代から、ホームレスの方々とその支援を行う人たちと関わりがあり、断る理由もないから始めただけです。そこには、路上で反天皇制の活動を始め、滞日イラン人の支援、さらにホームレスの闘争に加わった見津毅くん、そしてホームレス総合相談ネットワークの事務局長であった湯浅誠さんらの功績があり、彼らがいたからこそ、だと思います。

 ともかく、20年前には、東京でもホームレスという存在は、偏見と差別の対象であり、多くの先輩弁護士でも基本、関わろうとしていませんでした。そもそも、当時は、なんらの「仕組み」も存在せず、困ったホームレスの人に関わるということは、すなわちボランティア=無償、少なくとも経済的に見合うことなどない「仕事」ということだったのです。

 私は、志と慈悲の心が優れていたらから・・・ではなく、路上で構築された人間関係からの成り行きと、「まあ、いいか」といういい加減なところで関わっていただけですが、「誰もやらないなら」という気持ちはありました。

 余談的にいえば、新宿の実家の母親には「あんたホームレスの支援しているんだって?ウチの方には来ないように言っておいてね!」と言われたし、私は私で、湯浅くんに「なんでもかんでも、いつも俺なのかよ?!」と文句を言ったものでした(それゆえに、「組織化」を考えた湯浅くんはえらいと思います。)。

 ということで、当初、純然たるボランティアとして始められたホームレスの相談活動ですが、だんだんと公的助成を受けることが出来るように仕組んでいかれたことは一つの「功績」だと思います。

 しかし、本質的には、ボランティア活動が、このようなホームレスの問題に限らず、例えば、東関東大震災の被災地の「復興」活動の支援だったり、その時、その時、困っている人々の支援であるということは、忘れてはいけない点でしょう。
 忘れてはいけないのは、ただ、ボランティア活動であるというだけでは、それは、本来、国家が行うべき人々に対する生活の支えを、私たち自らが行う、いわば補完活動であり、大きくは国家=体制の存立を支える、体制のための行為で終わってしまう、ということです。

「わが民族民衆の一部が、全員に共同責任のあるさまざまな事情によって困窮に陥っているとき、そして、運命によってそれをまぬがれた別の一人が、他者がやむなく蒙ったその困窮の一部を、自由意志でみずから引き受ける心構えがあるというとき、それは、言ってみれば、他者の困窮をいまより軽減するために、わが民族民衆の一部にわざわざ意図して何らかの困窮を背負い込ませるということであります。そのような犠牲を引き受ける心構えが大きければおおきいほど、それだけ速やかに、他者の側の困窮を和らげることができるでありましょう。」

 この一瞬、納得してしまう立派な発言は、「飢えと寒さに立ち向かう冬季救援事業」の開始に際してのヒトラーの演説の一部です(『ヴァイマル憲法とヒトラー』池田浩志 著)。
 ボランティアとは、語義的には志願兵、義勇兵ということであり、それ自体、国家=体制に利用されるものとしての本質があると思います。

 私の体験としてのボランティア的な活動の意義は、ヒトラーが言うところの「犠牲」を引き受けても、ただただ現状を追認するだけの虚しさ、言うなれば社会の矛盾に直面しつつも、それを解決するためには、社会のあり方を根本的に変えなければならないのではないか、という疑問に至るところではないかと思います。

 そのような社会のあり方、世界のあり方を考えるきっかけとしボランティアは大きな意味があると思います。眺めていて、批判をして、何もしないよりずっと意義があります。