横浜事件の本質と今 (集会発言骨子) | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 思想弾圧の今日性
 私が言いたいことは、横浜事件の本質は、思想弾圧、それも、革命的で、新しい思想、社会主義や共産主義思想、つまりは階級闘争の思想への弾圧であったということと、その思想への弾圧のあり方は2015年の今もなんら変わっていない、という現実についてです。

 思想弾圧の現実
 マルクス・エンゲルスは1847年の『共産党宣言』の序文において「妖怪がヨーロッパに出没している、共産主義という妖怪が」と言っています。有名なフレーズですが、2015年の日本においては、「妖怪が国会前に出没している。過激派という妖怪が」ということになると思います。
 「過激派」というのはまさに権力の造語、支配者から見た不気味な妖怪ということになると思います。まさに思想差別の官製キャンペーンですが、実際、「過激派」と既定されている革命派=中核派が徹底的に国家権力の不当な暴力=つまり逮捕にさらされています。6月に2人、7月に2人、9月に5人、現在、勾留されている若者4名はまだ、未決ですが、あとは全部、起訴しない逮捕のための逮捕、つまり、むき出しの国家暴力です。
 横浜事件の元被告人の皆さんが特高警察によりさらされた国家暴力と同じ質の暴力が、今も公安刑事らにより公然と行われているのです。

 安全な思想と危険な思想の峻別
 すべては、資本主義における階級支配の暴露、戦争の動機をあからさまにし、時代をひっくりかえす真の意味で新しい思想への弾圧です。
 言っておきますと、自衛隊は合憲だといい、自衛戦争を肯定する民主党から共産党まで呼ぶような学生たち、つまりSEALDsのような、いわゆるリベラル、つまり体制内左翼ではなくて、体制外の階級闘争思想に対する弾圧、ということです。彼らは一人も逮捕されません。警備の警官らと協力関係にある、つまり権力にとって安全な思想はもちろん弾圧されません。
 今年初旬にブームになったトマ・ピケティの『21世紀の資本』は記憶に新しいと思います。資本主義における格差の拡大の現実の暴露。格差つまり、階級闘争を浮き上がらせる思想こそが「危険思想」であり、権力は、その大衆的な暴露をつぶすことに躍起になっているのです。そこをよく見切ってほしいと思います。

 思想へのアクセスの自由に対する弾圧として
 つまり、横浜事件から70年経っても、私たちは、それほどまでに「自由」(とりわけ、頭の中が)になれていない、ということだと思います。この自覚は、重要だと思います。

 もちろん、ソ連の失敗、中国の大国主義化など、無残な失敗もあり、社会主義・共産主義への偏見の植え付けに成功しています。目の前の資本主義の中での自分たちの生活自体が、まったくうまくいっていないにもかかわらず、です。メディアのコントロールの成果でしょう。
 安倍政権も国民連合のような政権だろうと資本主義の政権を打倒し、抑圧されている階級の利益のための世界を作る思想こそが重要だということです。

 元被告人らと向き合う
 横浜事件の時代と同じく、恐慌情勢下における資本の焦りと恫喝の時代が再び近づいています。2年前特定秘密保護法が成立~昨年7.1閣議決定~そして、今年に入り安保法制~盗聴拡大等刑事司法改悪が寝わられ続けています。排外主義、ナショナリズムと思想弾圧の時代の接近です。
 この今、私たちは、横浜事件の元被告人の皆さんと今一度、向き合うべきだと思います。
 私が出会った頃、木村亨さんは、明るい人でした。明るく、怒りをあらわにする人でした。父が第一次再審請求の依頼を受けたときから、よく実家に見えていました。今でも、隣の部屋から木村さんの声が聞こえてくるような気がします。
 その木村さんは横浜事件の頃、どのような人だったのでしょうか。早稲田大学を卒業して中央公論社に入社した若き編集社として当時、一所懸命、勉強し、考え、仲間と議論をし、いわば世界と格闘し、自分の思想を形成しようとしていた若者だったのです。クロポトキンに刺激を受け、当然なら社会主義に親しんでいた世代。今の私の世代以降のように、マルクスやレーニンの本など一冊も読むことなく偏見を持たされている・・そのように強いられている人々とはまったく違うのです。

 横浜事件はでっち上げの冤罪ではない
 横浜事件はただのでっち上げでも、冤罪ではありません。そう言ってしまっては返って故人を辱めてしまう。木村さん達は無辜の被害者ではないし、まして、安全で、無害な人ではなかったはずです。そんな人であろうとしていなかったのです。
 私が今、提起したいのは、この木村さんたち横浜事件の元被告人たちを過去の人と対象化するのではなく、「仲間」として共に闘うことです、この2015年に。
 それは、様々な偏見・予断・差別を乗り越え、体制外の思想への可能性、つまり、今、強制されている「常識」、つまり、立憲主義、非暴力、国家主義などを乗り越える階級対立と闘争の活き活きとした思想を蘇らせ、それを共有し、この、どうにも生きにくい資本主義末期の世界を、こんどこそ突破するために自らを解放して、自由になりましょう、ということです。

 それが、2015年の今、私たちが横浜事件の元被告人たちを尊敬と共に理解し、仲間として捉えなおす、本当に意味で、この横浜事件の被告人たちに報いることだと思います。