石川啄木・・・といえば『一握の砂』でしょうか。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る
まるで、今の非正規が蔓延する労働状況を歌ったみたい・・。「ぢっと手を」見つめて、東京朝日新聞校正係の啄木は何を考えていたのでしょう。
彼は、大逆事件(1910年)の弁護人を務めた平出修と極めて近い関係にあり、非公開の裁判の内実を当時からよく知ることができました。啄木の『明治44年当用日記』には以下のような記述が残されています。
1月18日 半晴 温
今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であった。午前に前夜の歌を清書して創作の若山(注 牧水)君に送り、社(注 東京朝日新聞社)に出た。
今日程予の頭の昂奮していた日はなかった。そうして今日程昂奮の後の疲労を感じた日はなかった。二時半過ぎた頃でもあったろうか。「二人だけ生きる・・」「あとは皆死刑だ」「ああ二十四人!」そういう声がが耳に入った。「判決が下ってから万歳を叫んだ者があります」と松崎君が渋川氏へ報告していた。予はそのまま何も考えなかった。ただ、すぐ家へ帰って寝たいと思った。それでも定刻に帰った。帰って話をしたら母の眼に涙があった。「日本はダメだ。」そんな事を漠然と考え乍ら丸谷君を訪ねて十時頃まで話した。
夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を「悪魔の顔」とかいてあった。
1月19日 雨、寒
朝に枕の上で国民新聞を読んでいたら俄かに涙が出た。「畜生!駄目だ!」そういう言葉も我知らず口に出た。社会主義は到底駄目である。人類の幸福は独り強大なる国家の社会政策によってのみ得られる、そうして日本は代々社会政策を行っている国である。と御用記者はかいていた。
石川啄木こそは、「大逆事件」をその存在をかけて受け止めた人物でした。しかし、権力は石川啄木のそのような真実を伝えることを封じ込め、社会主義に傾く啄木の真実=『時代閉塞の現状』は死後まで、『日本無政府主義陰謀事件経過及付帯現象』は敗戦後まで公刊できませんでした。
啄木のピュアで研ぎ澄まされた感性が大逆事件に衝撃を受け、社会主義・無政府主義に魅きつけられた・・・そう思って読むと啄木が「ぢっと見つめ」ながら考えたのは未来だったのではないか、その自らの手で成し遂げる世界だったのではないか?と思います。
肺結核で26歳で亡くなってしまった啄木。今こそ、啄木の本当の想いを引き継いで、ピュアで、自由で、素直な感性にふさわしい時代を築く時、ではないでしょうか。
先の日記ではさらにこう書かれています。「予はこの年に於いて予の性格、趣味、傾向を統一すべき一鎖鑰(注 錠と鍵)を発見したり。社会主義問題これなり。」