主人公として踊りだそう!  「主体」が問われる時 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 本当に、急速に、街頭や会議や飲み屋や、様々に人が出会う場が活性化してきたと思います。毎日の「現実」が、最高にホットで、テレビやネットでも、ドラマ、CMをはじめ、その他の「作り物」が相対的に後景化していると感じます。
 国会前では、比較的早い時間帯には年配の人々、そして、夜になるに連れ、それと交代するように若い人たちが続々と集まってくる様子を目の当たりにし、時代の動きや、全体としての私たちの大きな意志のうねりを実感します。

 いろんなところで、戦争の問題、政権と民主主義のあり方に対し、デモや集会、そして、議論が始まっています。希望と未来を感じます。同時に真剣な議論、向かい合った真面目な議論が必要とも感じます。まあ、民主主義の実践として。

 それは、まさに、今、私たちの「主体性」が問われる時だからです。

 私たちの意思と完全に相反する政府(権力)が目の前にあり、ゆえに、この政府はいらない!という私たち総体の意思が、今、ここに出現していると思います。従って、政府の責任を追及することと同時に、それに向き合う私たちに「じゃあ、お前(たち)ならどうする?」という問いが投げかけられている状況だと思います。

 確かに、「権力は絶対に腐敗する」のかもしれません。だとしたら?そうだとしたらどうしましょう?私たちは、常に権力の外から批判を続けていればいいのでしょうか?私たち国民(あえて主権者の国民として書きますが)の存在は「万年野党」のような存在でしかないのでしょうか。

 私たちが今の政権の責任を徹底的に追及し、ゆえに打倒した暁に、新たな「別の安倍政権」(自民でも民主でも共産でもいいですが)を招き、ただ、それを批判するだけに留まる、のであれば、それは主権者とはいえないのではないでしょうか。

 ちょっと先の未来に、主権者である私たちの「主体的」な意思、判断、行動、そして「責任」が問われています。

 それは、もちろん、この今の情勢での政府への弾劾の圧倒的な力があるからこその「次の」段階へのステップとして。

 権力として腐敗したか否かともかく、社会党(1995年)が政権を担っても、もちろん、民主党(2009年)が担ってもたいして変わらなかった、それが歴史的現実です。

 私たち民衆は「野党」ではなく自らの権力者(国民主権)になる必要があります。腐敗しないためも工夫は必要でしょう。1871年のパリコミューンのように短期のリコール制度のような工夫を自ら行う必要などはあるでしょう。

 そういう工夫をしながらでも、私たちが、私たちの、どういう世界を作るか、私たちがどうするか、が問われていると思います。「安全な傍観者」ではないのは当然、そして、さらに「評論家・批判者」としてではなく。

 責任ある主権者として。それは、覚悟が必要であると同時に、わくわくするやりがいのある事業だと思います。