『中国行きのスロウ・ボート』 仲間はどこにいる? | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 公立の小学校ですが、子どものクラスには中国やフィリピンやモンゴルやタイの子どもたちが一緒で国際色豊かです。私の郷里である新大久保あたりも、街を歩いているとアジアを中心とした多国籍の人々がいてコスモポリタンな気分になります。もともと、私の地元の友人も多国籍です。

 「最初の中国人に出会ったのはいつのことだったろう?」で始まり「友よ、友よ、中国はあまりに遠い。」で終わる村上春樹の初期の短編『中国行きのスロウ・ボート』。今から、35年も前に書かれている小説です。

 今も、私たちにとって、中国は遠いでしょうか?それとも親しい隣国の人々でしょうか。株式の乱高下、「爆買い」、それは、かつての「エコノミー・アニマル」と呼ばれた日本人の姿の現代版、みたいなものなのでしょうか。エコノミー・アニマル自体、別に批判ではなく、褒め言葉だったようですが。

 いずれにせよ、多くの中国の人の生活水準が底上げされているのだとしたら喜ぶべきことですよね。私は、そう感じます。

 どこの国の人でも、貧しい人が減って、本質的に豊かな生活ができるようになることをお互い望んでいるのだと思います。別に、自分だけ、自分の家族だけ、自分の地域の人だけ、自分の国の人だけ、なんて利己的な考え方ではない、と思います。

 自分という個体を超えて、家族、仲間という範囲で気持ちが及ぶ段階で、あとは、どこまでも仲間が広がる可能性があるのだと思うのです。何も日本に限定する理屈はないでしょ?理屈というか感情的にも。

 国家の威信だとか、国家の存立だとか、そういう言葉を使うのは、「騙しのテクニック」であり、国家を利用したい資本の手口だと思います。

 どう考えたって、私たちの仲間が国家単位で区切られる理屈はない。でしょ?

 私たちは自分を国と同化する必要はありません。むしろ、今、くっきり浮かび上がっているのは日本政府と私たち意思、利害の相反です。戦争をさせたい政府vs戦争に動員され犠牲にされる国民。この対立の構図は世界各国で同じです。

 集団的自衛権、存立事態、専守防衛、これらの言葉は、すべて私たちを騙すための造語です。私たち(つまり、世界中のそれぞれの国の国民、そして仲間)が考えるべきは、常に、私たちが自分の子どもたちに「武器を持って殺し合ってこい」という場合はどういう時なのか、ということです。

 本当の意味での私たちにとっての自衛、革命の場面など武装が必要な時はあるかもしれません、それは否定しません。

 しかし、今の資本のエージェントである政府が言うところの「国の存立」なんかのために、言われるがままに戦争をする意味があるのか、たとえ、奴ら(政府)が「専守防衛」の場面だと言っても、です。

 中国は今も遠い、でしょうか。しかし、中国の人々と私たちが近づいていることは確かだと思います。日本、そして中国の政府の思惑に左右されず、私たちは私たちの、人と人の国際連帯を、手をつなぎましょう。