これまで、何度も取り上げてきたテーマですが、今の国会で成立がもくろまれていること、そして、親しい人たちと話しても、どうしても、おそらく「国家観」「権力観」においてズレがなかなか埋まらないテーマなので、再度、書いてみたいと思います。
そもそも、取り調べの可視化、とは何ぞや?ということで、「取り調べの可視化」で検索すると日弁連のホームページで以下のような記述を見ることができます。
「取調べの全過程を録画(可視化)すべきです
取調室の中で何が行われたのかについて、はっきりした分かりやすい証拠を用意することはきわめて簡単です。取調べの最初から最後まで (取調べの全過程)を録画(可視化)しておけばよいのです。そうすれば、被告人と捜査官の言い分が違っても、録画したものを再生すれば容易に適正な判定を下すことができるでしょう。」
なるほど!確かに。・・・と思いますか?いや、思っても不思議ではないですよね。そういうふうに書いてますから。
ここで興味深いのは「録画(可視化)」とされている点です。つまり、「録画=可視化」ということです。記録をすることにより後に検証できる、それが取り調べの状況を可視化し、チェックすることが可能になるのだ、という理屈だと思います。これまた、納得することだと思います。
しかし、私は「取り調べの録音・録画は可視化ではない」と言い続けています。「録音・録画≠可視化」と言っているわけです。
どうやら、この辺りでズレが生じるようです。親しく、人権感覚も優れている友人たちでも、この辺りで私が言っていることはストンと落ちないようで、「一部可視化」だとか「毒まんじゅう」だとか、私からすると間違ったワードを使っているのです。私は、「一部も可視化しない」し、「毒まんじゅうではなく、毒そのもの」という認識です。
どこにすれ違いが生じるのでしょう?思うに「主体」の問題と権力に対するスタンス、なのかなあと思います。
先ほどの日弁連のホームページの「取調べの最初から最後まで (取調べの全過程)を録画(可視化)しておけばよい」という点と「そうすれば、被告人と捜査官の言い分が違っても、録画したものを再生すれば容易に適正な判定を下すことができる」という点、「誰が」録画するのか?「誰が」録画したものを再生できるのか?という点に私はこだわらざる得ません。
警察や検察が、合法的な暴力を使って拉致・監禁(=逮捕、勾留と呼ばれますが)後、密室で何をしでかすかわからない、という歴史的不信感がこの「可視化」の趣旨です。つまり、対象とされているのは警察・検察の不正行為への監視です。そのための「可視化」、そのための「録音・録画」・・・
ところで、今、法案で出ているのは、「あ~、オッケー、だよな、きちんとしないとな、とりあえずさ、俺(刑事だけど、何か♪)、自分で録音・録画しておくから。大丈夫、大丈夫、なんかあった時以外はきちんと録っておくからさ。」という制度です。
これって「私たちにとっての可視化」なんですかねえ? ああ、刑事さん、検事さんが録っといてくれるから安心♪ってことになりますかねえ?
・・・とまあ、この辺の「感覚」なのかなあ。けれどそれも仕方ないとは思います。テレビの刑事ドラマや検事ドラマとか、正義の味方ですもんね、いつだって。ちょっと無理して被疑者に暴力をふるうときは被疑者がすごく悪い奴だからですよね? 弁護士は真犯人の罪を免れることができたりしてね。
実際は、私の知る限り警察も検察も、決して公平ではなく、自分たちに都合の悪い証拠を自ら出すことはありません。経験済みです。
「可視化」・・・誰による、誰にとっての「可視化」なのか。国家権力の行うことは私が行ったもの同然か。国家の秘密は私たちの秘密なのか。
まあ、この辺の「感覚」、「理解」、「認識」、それは、それぞれの強いられた「教育」、「刷り込み」、「経験」によってかなり左右されるのだと思います。
私は弁護人として、多くの公安事件、争いのある事件を国家権力=警察・検察と闘った経験からして・・・取り調べの録音・録画を、私たちにとって「可視化」とは呼べません。