「リベラル」は「自衛戦争」に反対できるのか? | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 最近、一挙に、街頭が活性化してきている印象です。若者の「戦争法案反対」の動き、いままで、じっとしていた(印象の)憲法学者の安保法制「違憲」表明のインパクト、そこから、ますます、明らかになる国会での議論の茶番、それにより、さらにはっきりしていく私たちの思いと政府の乖離=非和解性。

 私たちのエネルギーを実感させる、いい「季節」の到来を感じさせることだと思います。とりあえずは、総体として私たちの意思(怒り)と力を自覚的ないし無自覚的に感じさせる大きな水路を切り開く流れが始まったものとして、その中に自身も加わり、力を出していきたいと改めて思います。

 様々な発想が、様々な層から出されていると思います。「立憲主義」だとか、「自由と民主主義」だとか、「労働者の自己解放」だとか、「1%vs99%」だとか・・・。また、手法も、集会、デモ、インターネットを利用し、占拠、ゼネストや政治ストライキなど・・・世界で闘いが始まっています。

 なので、状況は、とても面白く、希望に溢れている、と思います。為政者が、戦争に持ち込んででも突破しなければならない恐慌=体制の危機がそこにあるからこそ、の情勢なわけですが、この破綻に瀕した(彼らの)ピンチを(私たちの)チャンスに変える歴史的な時期であることは実感します。

 時代を戻すことはできないし、戻したくもない、というのが、「若者」を含めた今の私たちの時代に対する実感であることを感じます。

 その今、ふと考えるのは、「リベラル」という発想の意味です。私は認識と発想において「自由」であることを心がけますが、いわゆる「リベラル」ではありません。ウィキペディアによると自由主義(リベラリズム)とは「保守主義との対立概念はなく、日本では革新主義が『リベラル』と呼称されることが多いが、性質は正反対であり誤用である。」と書かれていますが、私も、「リベラル」とは、そういう思想のことだと理解しています。私の発想は、もっと根源的(ラディカル)で「階級的」な視点に基づくものです。

 もちろん、いろいろな発想・思想があっていいわけで、ただ、大事なのは、その発想・思想に「自覚的である」ことだと思います。とりわけ、歴史的な位置というか経緯について。

 「自由」というのは案外難しいことです。社会主義政権下の人々は社会主義的な自由を自由と思うし、資本主義政権下でも同じでしょう。もっと根本的に言えば、「暴力が奪われていても、それでも自由」「他人に権力を任せていても、それでも自由」「国家が存在するのは当たり前」みたいな発想から飛び出すところに、言葉の意味での「自由」はあると思うのです。

 その意味では、今の「リベラル」な発想が、ナショナルな方向へ吸収されないか、ちょっと心配なのです。もっと、もっと階級的対立に目を向け、その対立・対決から目を背け、日和るのでは、本当のイザというときに、丸めこまれてしまうのではないか?という危惧です。

 今の、この、政治的に活性化しつつある、私たちの状況はとてもチャンスだと思っています。だからこそ、仲間になるべき99%同士、率直な意見を交換するべきだし、意思一致を試みるべきでしょう。「あの人たちはあの人たちだから」ではない、ときに、暑苦しい議論を、する季節だと思うのです。国会の茶番なんか放っておいて 、私たちこそがきちんと議論していきましょう。