民主主義における主権者であるという「シバリ」 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 高橋源一郎の『ぼくらの民主主義なんだぜ』を読んでいたら、湯浅誠くんの「内閣府参与」辞任における「民主主義とは、どんなに嫌がっても、主権者から降りられないシステムなのです。」という言葉が引用されていました。

 湯浅くんの内閣府参与就任については、身近にいた者として「なんだよ、権力の中に入っちゃて、利用されるだけじゃないのか」と当時思ったりしたものですが、この「民主主義とは、どんなに嫌がっても、主権者から降りられないシステムなのです。」という言葉は、そうだよなあ、と思いました。

 主「権」者なのでももちろん、権利なのですが、降りられない、ということ。つまり、どんなに忙しくても、生活が厳しくても、儲かっていても、子供がいてもいなくても、関心がなくても、責任感がなくても、知識がなくても、意気地がなくても、主権者であることは降りることはできない、ということです。

 とりわけ議会制民主主義では、有権者には選挙権が「与えられ」ちゃってますので、選挙に行かなくても行っても、主権者の選択としては「行ったよね、チャンスはあったよね」と言う仕組みになっています。

 もし、あなたが民主主義、具体的には議会制民主主義がいい、と思っているなら、社会に対する知識・関心不足、日常の忙しさ、ほかにやりたいことは、一切、議会制民主主義的結果に対する言い訳にならない、のでは?ということです。

 「結構、辛いなあ、民主主義は」と思ったとしたら、それは、その通りなのだと思います。民主主義の主権者が辛いというか責任背負うわけです。嫌だったら、誰かに(安倍首相に?)丸投げすればいいのです。文句は言いっこなしです。

 それが嫌なら、どうするか。大変だけど、降りずにステージに上がる、テーブルにつく、ともかく、自分の主体を立ち上げる、というか何かを考え、やってみる、ということに尽きるでしょう。辛いけど頑張りましょうね♪