「それでも、取り調べは可視化されなければならないではないか?!」という意見があります。
問題は、現在、国会に上程されている法案の中身が「取り調べの可視化」と言えるものなのか、ということです。
法案で書かれているのは、かなりの例外がある「取り調べの録音・録画の義務化」です。これを、日弁連・マスコミ・その他の人々は「取調べの可視化」と呼ぶのですが、私には、そこがピンときません。
そもそも、「取調べの可視化」とは、被疑者が取り調べられている状況をオープンにする、つまり被疑者側に開示されている状況を作り出すことにあると思います。この発想は、つまり逮捕されている被疑者に対して、警察官や刑事が、暴力を用いたり、脅迫を行ったりするので、それを私たちが民主的に監視する=つまりオープンにすることにより防止しよう、ということであり、それ自体は理解できるでしょう。
だとすれば、まずもって「被疑者・弁護人にとっての可視化」なのですから、取調べする側のイニシアチブで録音・録画を義務付けても、それがイコール可視化にならないことは明らかです。被疑者側が録音・録画する権利を認めるならともかく。そもそも、取調べする側から録音・録画されることは被疑者にとってはやはり監視と同じで、それは嫌だという元被疑者もいます。
それに、逮捕され監禁(勾留)されたまま自白を強要されるのは何も取調べの場面だけではなく、逮捕の瞬間から暴行・恫喝による強要が始まるのであって、そこが「可視化」していないと意味はありません。
そもそも被疑者の逮捕から23日間に及ぶ長期勾留制度を前提にした議論ではないか、という点も考える必要があると思います。
いずれにせよ、相手(国家)が持っているもの(録音・録画)が、自分(被疑者・弁護人)にとって、オープン(可視化)である、という感覚、これは、国家に対する信頼がベースにある発想だと思います。「義務化すれば義務に従い録画・録音する→それは弁護側が要求すればそのまま開示される」ということを信じられるか否か・・・。私は信じられないんですけどね、「機材が故障しちゃったので(*例外とされています)」とか平気でいいそうで。これは厳しい刑事弁護をやってきた現場感覚のつもりですが。
「可視化」とは本来、国家に対する徹底的な不信の発想から生まれてきた発想です。「脅迫的な取調べがなされないよう国民側が監視しよう」という健全な発想だと思います。「国家は、階級対立の非和解性の産物であり、その現われである。国家は階級対立が客観的に和解させることができないところに、またそのときに、その限りで、発生する。逆にまた、国家の存在は、階級対立が和解できないものであることを証明している。」など革命中に書かれたレーニンの『国家と革命』では、徹底的に、この国家と私たちの非和解的な関係を指摘していますが、「可視化」という発想はそのような国家観に裏付けられた民衆の知恵だとは思います。
実際のところ、今、国家機関(政府)は、私たちを自分たち(大資本)のための戦争に私たちを動員しようとしている(違憲の安保法制)し、新たな管理体制を構築(刑事司法改悪)し、大企業が使い捨てできるよう(労働法制改悪)にしており、私たちとの対立の「非和解性」ははっきりしていると思います。その国家権力が約束(法律)に書いてあるからって、それを守って録画・録音して、それを全部見せてくれる?そんなことはないだろうと思うのです。
「可視化」を考える上では、この国家観は重要でしょう。それとも国はアナタのためにいいことやってくれていますか? アナタは今の政府を私たちの政府といえますか?