情熱、真摯、跳ね上がり・・・反天皇制全国個人共闘・秋の嵐について | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 先日、見津毅くんのお別れから20年の集い、という企画が渋谷のキンプク(勤労福祉会館)であり、急遽、参加しました(出来ました!)。見津くんというのは、95年3月19日に亡くなった当時、27歳の青年です。20年も前に亡くなった見津くん、その集まりに渋谷に当時の仲間たち、当時何かのつながりがあった人たちが集まりました、私もその一人です。

 見津くんという存在は、私にとっては91年、弁護士になった途端に出くわした「公安事件」であり、活動家(ノンセクト・ラディカル)であり、比較的近い世代の仲間を感じさせる人でした。彼は反天皇制全国個人共闘・秋の嵐という、私にとっては摩訶不思議なグループのリーダーでした。私は91年4月に弁護士になり、その翌月に彼らの「救援求む」というチラシ(写真)を見て、そこの裏に記載されていた電話番号に電話をかけ、「自ら」弁護団も加わったのでした(!)。チラシのセンス、ボブ・マリーの「get up,stand up.stand up !」をあしらったイラストに魅かれたのかもしれません。

 救援が求められていたのは、原宿のホコ天で、逮捕されパトカーに押し込まれた手錠の男(クロちゃん)を救出したという(冤罪)事件についてで「被拘禁者奪取罪」という極めて珍しい公安事件への弁護活動の救援でした。それが、私の弁護士最初の刑事弁護人デビュー。

 初めての弁護団会議に行くと、弁護団も私の同期、つまり1年目の弁護士と2年目の弁護士だけ。そして、モヒカンの男(太田リョウくん)やらよくわからない若者がワサワサ集まって、ガチャガチャやっていて、そこで見津くんと初めて会ったのでした。

 聞くところによると彼らは、昭和天皇から平成天皇への代替わりの自粛ムードの中、明治神宮の入り口、つまり原宿において右翼や警察にボコボコにされながらも様々なパーフォマンスをしながら昭和天皇の戦争責任を追及する等の活動をしていたようでした。

 世代も比較的近く、いろいろ気があったのか、私は彼らと仲良くなり、原宿の駅頭での「スピーカーズ・コーナー」(つまり、トランジスタ・メガホンを置いて自由に話をする路上企画)の「監視弁護」(警察から妨害されたりしないように警察を監視する弁護士の活動)をやったり、原宿にその頃、毎日曜日集まっていたイラン人の人権問題を支援する活動や、バブルが弾けて労働力としてのイラン人が国外退去された後には、日本人ホームレスと呼ばれる人たちのための大晦日の炊き出しなどに参加するようになっていました。原宿・代々木公園の街頭に立っているうちに時代と課題がシフトしていった、そんな実感です。

 ・・・という具合に、彼らとの出会いは、その後の私の弁護士、というか一つの生き方を決定づけるものだったのです。勢いがあって、明るくて、ふざけながらも真摯でピュア・・ゆえに、権力に弾圧されることもある・・・そういう存在を初めて具体的に知ったのでした。

 先日、見津くんの死後20年で集まった人たちは、本当に20年ぶりの人、
おぼろげながらにお互いを覚えている人(「ああ、炊き出しでギター弾いてたな、あんた」とか)、近年知り合ったけど、「秋の嵐」つながりだったと初めてわかった人など様々だったのですが、集まった多くの人が、この20年を「見津くんならどうする?」と自問しながら様々な試みをしてきたようでした。私もまさにそう。
 
 彼らは、当時、様々な既存のグループからはじき出され、はみ出た、跳ね上がりの集まりみたいに言われていましたが(確かに、そうだとも言えましたが)、だからこそ、元気に思考を実現するという非・優等生の真面目さ、優しさ(ゆるさ?)に惹きつけられたのだと思います。20年ぶりの集まりに、私は「ああ~、俺、ここが原点だったんだなあ」と改めて噛みしめました。

 やっぱ、考え続け、試み続け、自分に新鮮なことを求め続けないと。そう思います。サボっていると「え~、森川さん、やんないの、生きてるのに?だったら、代わってやるのに」と時々声が聞こえてくるようで、ああ、わかった、わかったやる、やる、と自分を奮い立たせたりしてきています。

 こんな時代になっていて、今こそ、20年前より頑張るとき、違憲の戦争法案・治安立法・労働法制の改悪など、あまりにも歴然と政府と私たちの思惑は対立しています。が~んと、やりましょう!
GET UP,STAND UP,FOR OUR RIGHT!