Every breath you take 「可視化 」? 記録されることは権利なのか | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 私たちが、私たちの知りたいこと知り、伝えたいことを伝えることができる、という意味で、情報がオープンで、可視的で、自由であることは望ましいことなのだろうと思います、検閲、禁書、秘密、監視とは正反対の。

 しかし、現実は、既に多くの場所に防犯カメラが備え付けられ、また、盗聴=電話・メールの盗み聞きも技術的には可能で、私たちの行動は、かつてに比べ、かなり晒されている世界です。

 したがって、そのような私たちの情報を、「誰が」アクセスで、「誰が」コントロールできるのか、が大問題ですが、多くの場合、アクセスできるのは、警察・検察等の政府・権力であり、もしくは、大資本であり、私たち庶民は、一方的に情報・プライバシーを把握されてしまう側にありがちです。

 こういう状態を「監視社会」というのであれば、21世紀の初頭の段階で、一定程度、監視社会は完成しつつあると思います。

Every breath you take
 Every move you make
 Every bond you break
 Every step you take
 I'll be watching you
 かつてthe POLICEが「警告」したように、私たちの息遣い、身震い、裏切り、すべてを見届けられてしまう社会の到来・・・。
 
 これは、か・な・り恐ろしいこではないでしょうか。20世紀には、いったん、外出するということは、どこにいるのか、誰といるのか、そして、何をしているのか把握することは困難であり、つまりは、自由な時代だったと思います。
 今や、連絡がつかないことの方が例外、というような、かつての時代からは考えられないような状況になっています。

 自分が今、どこで、誰と、何をしているかをオープンにするか、否かは、それをプライバシーと呼ぼうと呼ぶまいと、私たちの基本的な自由ではないかと思いますが、どうなのでしょう?

 むしろ、原則オープンである、というのが今後の社会のあり方・規範・常識なのでしょうか、そういう価値観の転換もあるのかもしれません。

 ただ、一方的に権力、つまり、支配者層が情報を一元的に把握し、私たち側は自分の個人情報でさえコントロールできないのはおかしい、と思います。

 この感覚、この一点だけからいっても、被疑者の取り調べが「捜査機関」側から一方的に録音・録画されることの不快感、不自由さ、居心地の悪さ、制約を感じることができるのではないでしょうか。


 それを「可視化」への第一歩などと評価する日弁連の「人権感覚」はまったく理解できません。もっと、もっと、ナイーブで具体的、きめ細かな感性こそ、必要なのだと思います。