「証拠はないけど有罪である。」という心証の根拠 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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「あいつ、まんまと無罪になったけど、ホントはやっているよな」みたいなストーリーが小説や現実にときたまあると思います(『オリエント急行殺人行為』とか)。
 このような話のポイントは、①裁判というのは証拠だけで決められる手続きにすぎない、②現実の世界は証拠だけでなりたっていない、という認識がベースにあるのだと思います。

 ①、②どちらもその通り。なので例えば、「私は、この目で見たんだ!体験したんだ」という場合などは、そう言いたくなるのは当然です。但し、「本人が言う限り」は、ということであって、誰かが「俺はアイツが犯人だ」と言っていることが信じられるか否かは別問題です。

 裁判では、証人のそのような証言が本当かどうか判断します。これが「証拠」に基づく判断ということの意味。では、日常では? 現実の世界ではどうか?

 私たちも、日々、何かに基づき、何かを判断しています。例えば、他人が言っていることでも、「あの人が言うことなら信じられる」とか「アイツは信じられない」とか。
 という意味では、私たちの日常でも自分なりの「証拠」と「証拠法則」に基づき判断をしているのです。

 では「裁判では無罪となったけど、本当は犯人(有罪)である」という認識は、どこから生まれるのか、何に基づき判断しているのか、という点が大事、ということになると思います。
 「自分が、直接、見た」以外にあるのか、ということです。案外「顔つき」だとか「フンイキ」だとか「これまでやってきた(と言われている)こと」とか、「一旦、逮捕されたから」などの不明確な根拠かもしれません。

 自分が、何故、そのように思っているか、その根拠を突き詰めるというのは裁判だけではなく、日常生活でも役に立つ、というか必要なはずです。

 もちろん、すべてを検証することは出来ません。だけれども、「自分が認識していることの根拠」を疑うという作業は、人生において何時だって大事だと思います。
 ある意味、自分の中で「裁判」を行うことにより、自分の「考え」を持つことが出来るのだと思います。
 ま、「直感」が当っている場合ももちろんありますけどね。それは「直感にすぎない」という認識があれば、それはそれでいいと思います。もちろん、その認識を他人と共有出来るかは別ですが。