潔く責任を取る代表者のかっこよさ  戦争政策・司法改革その他 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 あるプロジェクト、例えば、会社を立ち上げ、それがうまくいかなくて赤字・負債が過大になれば、倒産で、代表者は責任をとって辞める、多くの場合には自己破産、という展開は一つの典型パターンです。まあ、法的には必ずしも自己破産しなくてもいいですけどね。どう潔く責任を取るか、取らせるか、ということですね。

 では「司法改革」つまり、弁護士激増政策や法科大学院など、弁護士自体、経済的に魅力のない仕事にし、既に破綻が進行している法科大学院政策など、こういう新自由主義政策の責任を取るべき代表者は誰か?
 政策ですから、政府ということにはなるでしょうけど、ここ15年くらいの弁護士会執行部も旗を積極的に振ってきた以上、責任を取れよ潔く、と思います。

 いや、ホントに。私たちは弁護士会の中で、「司法改革は私たち弁護士に対する解体攻撃ですよ、反対しましょう!」ということを色んな機会を捉えて言い続けてきました。それでも、執行部とそれの協力者は推進・容認できて、そのあげく、最近は、私たちに非公式には「お前らの言っていた通りだな」なんて平気で耳打ちしてくるのです。

 潔く責任を取る、ということは、そうではなくて、誤りを認め、謝罪し、誤りを正す方向に舵を切って進めることでしょう。自分で出来なければ、そう出来る者に舵を渡せばいいのです。私や私たちの仲間は、批判だけしているわけではなく、自分たちの運命を切り開く自負と責任、そして権利を自覚しています。

 昨年の7・1閣議決定で踏み切った戦争政策というプロジェクトも同じです。まったく馬鹿げた戦争に国民を動員する際の責任者が大量の犠牲者を出した後も曖昧なまま留任というのでは責任の取り方として誰も納得できないでしょう。
 しかし、そういうことは現実にあるのです。いや、あったのです。
 ということは、再び、そうなる可能性もあります。つまり、戦争に誘導し、多くの犠牲者を「敵」「味方」双方に出しながら、推進の代表者は責任を取らない、ごまかす、ということは歴史的にあり得る、ということです。

 責任をしっかり追及し、取らせない場合は、再び、同じようなことが起きるのだと思います。

 戦争に「動員」され1943年、ニューギニアに送られ、そこで苛酷な経験をした方一人の元兵士が、戦後、「戦争であれほど多くの尊い人命を犠牲にしておきながら、本質的には昔とほとんど変わらない社会」を見て、自分なりに「責任追及」をした姿をドキュメントした映画は、あのマイケル・ムーアをして「生涯見たドキュメンタリーの中で最高」と評価させていますが、たしかに、その迫力はハンパではありません。彼の中の戦争で犠牲になった仲間への想いが、戦後、怒りに転嫁し、爆発しているのです。許せない、という怒りです。「方法」はともかく、その怒りは戦争を体験した多くの人が共有できるのではないでしょうか。

 潔い責任を取らせる責任、というのもあるのだと思います、それは私たちに。自分の現場の責任は自分でしっかり追及して、未来を切り開きましょう!