この間のトマ・ピケティが提示した「r > g という不平等式」は、その本のタイトル通り、21世紀の「資本(主義)」を表したものであり、「この世」のあり方の公式ではありません。
完全になればなるほど「資本主義では」格差は拡大する、という意味です。
この「不平等式」の受け止め方は、それぞれのポジション・思想と経済的現状により、はっきりと分岐してきているなあ、それはそれで面白いなあと思います。
つまり、「資本主義体制内改良の発想」と「資本主義打倒の(つまり革命的)発想」です。この相対立する「発想」を意識的ないし無意識的に選択されていることが、色々な方のコメントに現れていて、「ははあ・・・そうなのかあ」とある種、リトマス紙的な役割が果たされているように思われます。
トマ・ピケティ自身も、「むずかしいのはこの解決策、つまり累進資本税が、高度な国際協力と地域的な政治統合を必要とすることだ。・・・多くの人々は、たとえばEU内なでさらなる協力と政治的統合に向けて動けば、既存の成果(その筆頭は20世紀のショックへの対応としてヨーロッパ各国が構築した社会国家だ)をだめにするだけなのではと心配しているし、それだけの犠牲を払っても生まれるのは、ますます純粋で完全な競争から予測される市場以外に何もないのではと懸念している。でも純粋で完全な競争は不平等式r > gを変えられない。これは市場の『不完全性』のせいで生じたものなどではないからだ。その正反対だ。確かにリスクはあるが、私にはまともな代替案が思いつかない。資本主義のコントロールを取り戻したいのであれば、すべてを民主主義に賭けるしかない・・・」(『21世紀の資本(日本版)』p603)
と述べるのみで、むしろ、「世界的な資本税というのは空想的な発想だ。」(p539)と自ら留保しながらも、「体制内」解決を志向していることを明確にしています。
少なくとも現状、というかここ30年くらいは、世界全体は、逆方向に進んでいて、超富裕層の課税は低くされていて、そこに80%もの最高税率を賦課するという発想自体、すでに「革命的」だと思いますが、それを「民主主義で」と言われても・・・・出来るなら、とっくにやっているでしょ、という感想にならないでしょうか。
・・・・とは思いますが、朝日新聞なども、「平等と資本主義、矛盾しない」なんてことをピケティのインタビューで大見出しにする(15/1/1)くらい明確に「体制内」つまり、資本主義の立場に立つというある意味偏ったスタンスを明確にしています(数年前にも「資本主義の代案は資本主義しかない」などいう社説が書かれていましたね)。
仮にも(もちろん仮にも!)公正とか中立を「建前」にするのであれば、この思想的・立場的な「偏り」は、「ブル新(ブルジョア新聞)」と呼ばれても仕方ないと思いますよね。
私としては、もっと自由に「r > g という不平等式」を理解して、ある一つの体制(この場合はもちろん資本主義ですが)のみに囚われずに、Alternativeを発想してもいい、いや、すべき時代なのではないか、と思うのです。
せっかく、資本主義の非人間的・人類史的限界をr > gが示しているとすれば、その中で留まる発想は、自由とは言えないからです。
どんな時代でも、その時代に生きている人にとっては、その時代や世界が「すべて」で「最後」のあり方に見えるのかもしれません。しかし、そんなことはなかった、というのが歴史の真実だと思います。時代は変わるのです。ピケティの「楽観主義」は、ピケティをも乗り越えてしまう自由さを持ってもいいのだと思うのです。
「格差、不平等」という用語に拘るより、「階級」という言葉も用いた方がストレートに表す現実もあると思うのです。これを認めるか、認めないかは、結構、自由な発想というものをその人がどう考えているかのメルクマールだと思います。「ブル新」は、避けますからね、こういう言葉を。
私たちは、自由に発想し、自由に意見を表明しましょう!
