格差は広がる一方で、残業代ゼロ法も成立しそうであり、かつ、戦時体制へ突入しつつある東アジア情勢。こんな時代に改めて、100年前、1917年の革命の最中に書いていて、完成はされなかったレーニンの『国家と革命』を読むのも有意義かと思います。
今の「常識」からは、付与の前提とされている概念の捉え方にインパクトがあり、私は、この本を初めて読んだときビックリしました。
・「国家」の捉え方
「国家は、階級対立の非和解性の産物であり、その現われである。国家は階級対立が客観的が客観的に和解させることができないところに、またそのときに、その限りで、発生する。逆にまた、国家の存在は、階級対立が和解できないものであることを証明している。」
=つまり、国は「共同体」などではなく、対立を前提とした「抑圧」機関ということで対立がなくなれば不要になる、という考え方です。
・「国家」の本質について
「(国家とよばれる権力は、)監獄等を意のままにする武装した人間の特殊な部隊にある。」
=警察や軍隊などの「暴力装置」の独占・掌握こそが国家の本質である、ということです。
・選挙(議会制)について
「(普通選挙権は)労働者階級の成熟度の計器である。それは、今日の国家では、それ以上のものとはなりえないし、またけっしてならないであろう。」
=選挙なんていうものは、それ以上のものではない、つまり、「大多数の意思を表明し、その実現を確保できるかのうような誤った考え」を抱くな、ということです。
・民主主義そのものについて
「エンゲルスによれば、ブルジョア国家は『死滅する』のではなく、革命のあいだにプロレタリアートによって『廃絶される』。この革命のあとで死滅するのは、プロレタリア国家または半国家である。」
「民主主義も国家であり、したがって、国家が消滅するときは民主主義もまた消滅する、ということをよく考えたことのない人だけである。ブルジョア国家を『廃絶』することができるのは、革命だけである。国家一般、すなわちもっとも完全な民主主義は『死滅』するほかはない。」
=民主主義というのものも、絶対的に必要なものでなく、そんなものすらいらなくなるのよ~ん、ということです。
ふ~ん、なるほど、とか、う~ん、そうかな?、などいろいろ思われると思います。大事なのは、「こういう発想がある」、ということです。
「国家」や「民主主義」について絶対視しないで考える、ということが、2015年の現実の中で、改めて必要なことであり、私たちを自由にしてくれるのではないか、と思うのです。
