イスラエル軍がガザに対し、「自衛」の為にミサイル等で攻撃し、多くの死者が出ています。アメリカ軍が戦争を負わせる為に広島・長崎に原爆を落とし、多くの犠牲者が生まれました。安倍内閣は、閣議決定で、自衛の名のもとで軍事的暴力を行使することを宣言し、それは「戦争」とは呼ばない旨述べています。
仮に、「非暴力という選択」が、私たちに可能だとすれば、それは選択ですから、暴力の行使も出来るけど、それをしない、という場合に限られるでしょう。「出来る」という意味は、まず、暴力装置コントロールの実質的可能性と、合法的に、ということが当然含まれます。
そのような条件下で、非暴力の選択は可能なのであって、今、私たち民衆はそのような選択は出来ません。
基本的に合法な暴力行使権限は、公的な権力に独占されています。私たち民衆は、いわば「武装解除」されているので、「素手」に近い暴力しか実質的には使えないし、刀剣、銃、戦車、ミサイル、軍用機、また、監禁装置(代用監獄、刑務所等)は全て警察、軍隊(自衛隊)ら公権力が独占的に支配されています。
従って、現在、私たちに非暴力という選択は出来ません。出来るのは、単に、「暴力はいけない」というプロパガンダによる一方的な公権力による暴力の独占状態を、「あたかも自らの選択と思い込んで」非暴力を余儀なくされている、というところでしょう。
私は、暴力行使は出来るだけ避けたいと思いますが、自由に出来ない状態は不自由だと感じます。
国家権力が、資本家の利益の為に軍事的暴力に私たちの子どもたちを動員することは不当だと思いますが、民衆の抵抗としての暴力が必要な場合はあるのでは、と思っています。
国家権力は、自らの暴力行使を「合法化」し、もしくは、それは「安全保障」であり、「防衛・自衛」であり、「平和主義の行為」だと強弁し、決して「暴力・殺人行為」だとは認めないでしょう。
いわゆる「非暴力主義」の人は、どこで、何時、非暴力を選択するのでしょうか。まずは、暴力の国家独占を解除しないと「選択」は出来ないでしょう。
私が言いたいのは、暴力が取り上げられている、という認識もなく、自由も平和も、ましてや反戦も国際連帯もあり得ない時代に突入している、ということです。
権力に押し付けられた「非暴力」に甘んじて、「無抵抗」で現状を容認することは国家権力による暴力=軍事活動を容認、黙認、追従することです。
現実的、実質的に、国家権力をして、私たちの意思と力に従わせることが「民主主義」でしょうし、私たちの人数をもってすれば、それは可能なはずなのです。そうしなければ、国家の利益の為の戦争に動員され、民衆同士の無意味な殺し合いという暴力行使を余儀なくされるだけです。それが、歴史の真実。
「自由」になりましょう。FIGHT & PEACE
