広島で想う 国家 戦争 デモ | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 原発再稼働方針、さらに、7月1日に「戦争出来る国」に閣議決定を強行した安倍首相が、本日8月6日の広島の「平和式典」に出席し、発言しました。こんな矛盾はないと思います。恥ずかしいことです。

 安倍首相の言う「国民のため」「国の存立のため」「経済のため」というのは、すべて、1%の資本のためであり、99%の民衆のためではありません。原発事故により子どもたちは甲状腺がんやリンパの異常が発生し、戦争には、自分たちで行くわけではなく、民衆の子どもたちが行かされるわけです。

 それでも、メディアを含め、「中国はひどい」「中国が尖閣に攻めて来たら」と排外気分を煽り続けています。

 中国が攻めて来たときにも日本を守らないのか?!きさまそれでも日本人か? みたいな。

 戦争反対が意味を最も持つのは、そういう時でしょう。あらゆる戦争は、自衛だとか、邦人救出だとかの「建前」で始められます。今、イスラエル軍が行っているガザの虐殺だって「自衛」と言ってますからね。「自衛」といえば、何でも含まれるし、それに対する抵抗はすべて「テロリズム」という定義なのです。

 だからこそ、どんなときも国家の行う戦争には反対だ、という戦争する国家=政府こそ敵だ、という確信が必要だと思います。歴史的にも、日本の軍隊が国民を守ったことはないです。

 内閣は7.1閣議決定でも、国と国民の利害をひとくくりにしようとしていますが、国=資本の代理人と国民の利害は、対立しています。原発と戦争は国=資本の利益であっても、国民にとっては犠牲であり死を意味します。

 「お国のために死ぬ」なんて全く馬鹿げています。
 そもそも、国、国家って何なんだ?と真剣に考えるときでしょう。国とは自分にとって何か?政府は、誰のために施策を行っているのか? 何故、国は、戦争をすること、原発を再稼働することに躍起になっているのか?

 69年前、ここ広島に原爆が落とされました。落としたのは軍隊であり、落とされ、犠牲にされたのは民衆です。
 アメリカを政府と民衆をひとくくりにして憎む前に、戦争を始めた日本の政府・軍部を批判すべきでしょう。そして、戦争をしようとする自国の政府をつぶすことこそ民主主義であり、反戦の行動だ、ということ。
 ともかく、日本政府と私たちをひとくくりされてはたまりません。他の国の人々もそうでしょう。イスラエルの人々もガザ攻撃反対のデモを行っているのです。

 今年は、反戦・反原発デモに対する警察及び機動隊の嫌がらせが昨年にまして厳しくなっています。何故でしょう? 戦争を反対されることを政府がとてもとても嫌っているからです。だからこそ、やるのです。

 世界の人々と仲良くしましょう。殺し合うのは、やめましょう。戦争に行かせようと煽る政府こそ、潰しましょう。

 1945年8月6日に広島に原爆を落とされ、さらに9日に長崎に原爆を落とされ、そして、14日には、自分たちの責任を免れる為に公的な文書を焼却することを「閣議決定」した上で、ポツダム宣言を受諾したのです。それが国家です、自分たちのことしか考えていないのです。
 そんな国のために多くの人々が戦争で死んでしまった。

 デモや集会で戦争が止められるわけではないかもしれません。しかし、戦争政策や原発再稼働方針に反対だ、という仲間がいるんだと人々の伝える方法の一つです。今日も、デモの沿道からは、多くの支持が得られました。 
 思いつく、やれることをやりましょう。今が、後に「戦前」と整理されないように。未来の為に。