レッテルを貼られる、ということ | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 レッテルを貼られることを嫌うという人は多いと思います。あたかも、レッテルを貼られないことが自由、みたいな。実際は、その逆で、レッテルを貼られても構わない、むしろ、自分が中途半端な日和見である、と見なされるよりは、レッテルが貼られた方がまだマシ、ということに気づいていないだけなのだとは思います。

 「あの人は、こういう人」みたいなレッテル。まあ、嬉しくはないけど、そう貼られたら裏切ればいいだけで、「遊び」みたいなものでしょう。

 そのレッテルを信じて、近づかない人も出てくるかもしれません。じゃあ、レッテルが貼られてなければ近づいてくるのかといえば・・・どうなんでしょうねえ?
 誤解されたくないだけ? では、レッテル貼られない場合は、どう「理解」されるのかな? 同じじゃないの?

 いずれにせよ、レッテルを貼られるのが嫌で、意見表明をしない、思想を持たない、曖昧にする、というのは、絶対に支配者にとって都合のいい「洗脳」の思想だと思います。

 フィーリングで生きろ、イデオロギーの時代は終わった、みたいな脱・思考キャンペーン・・・。すべては、考えられ、抵抗されては困る支配のための洗脳だとおもいます。だから、逆に、考え、意見を表明し、現状を批判しましょう、それが、支配を抜け出し、生き抜く為の知恵です。

 「あの人は、戦争に反対だから」とか「あいつは原発に反対だから」でいいではないですか?ある意味、レッテルを貼られちゃった方が楽、な場合も多いです。どうせ、よく話し込まないとお互い理解なんて出来ないんですから。だったら、わかりやすく「こういう人」で最初はいいじゃないですか♪
 
 そうではなくて、「いや政治には関わりたくないので」なんていう大人こそ、「日和見野郎!、かっこ悪いぞ」とレッテルは貼ってあげましょう。