昔は、小説ばっかり読んでたのに、最近は、結構ご無沙汰です。大江健三郎かと村上春樹とか伊坂幸太郎の新作をチェックするくらいかなあ、新しいのは。
何かと実用書というか、役に立ちそうな本とか、軽い本とかを手に取りがちで、長いストーリー・ものがたりを忌避しているかもしれません。
大学生の頃は、フィクションばかり読んでたのになあ・・・。
アーヴィング・ウォーレスの『七分間』という小説は、猥褻裁判を扱ったものですが、これも父の本棚にありました。たぶん、どなたから贈呈されたものだったと思います。ちょっと分厚くて、かつ、「裁判かあ・・・」とそのころは敬遠していたのですが、大学3年生になって、ふと手に取って読み始めるとぐいぐい惹き込まれて、あっという間に読み終わりました。
おお、弁護士って面白いんじゃない♪とこれを読んで思いました。ある意味、これで弁護士を志したと言ってもいいかもしれません。
小説としても、かなり、ワクワクのストーリーでしたが、人物描写も詳細かつ通り一遍ではなく、かなり優れた小説だと思うのですが、今はあまり読まれていないようです(10年以上前『ダヴィンチ』という雑誌で紹介したことがあります。名古屋の弁護士の先輩からコピーさせて欲しいとのリクエストがありました。)。
小説や映画を巡る裁判・・・例えば『チャタレー夫人の恋人』や『愛のコリーダ』などが有名ですが、いずれも、横浜事件の弁護団の環直弥弁護士や内田剛弘弁護士が担当していたというのは、ある意味、象徴的だと思います。
表現、思想というのは、そのギリギリのところで秩序と抵触するものだし、逆に言えば、抵触する可能性もない表現は、それだけのもの、ということだと思います。
私も、柳美里さんの『石に泳ぐ魚』の上告審だけ代理人として参加しました。結局は、「オリジナル」は出版差し止めが確定しました。
「オリジナル」は極めて力のある作品だったと思います(私はもちろん読みました)が、同時に危険な力を持っていたという社会的評価を受けた、ということです。
フィクション、つまり虚構なのですが、時に、小説は力を持ちます。人に影響を与えます。しっかりとした人類の蓄積としての小説は、時間を作って読むべきなのかなあ、と最近、そういう「信号」を受けている気がします。
