国家権力による盗聴が、ドンドン、フリーハンドの合法化に向けて進んでいます。法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」では、これまでに以上に検察・警察権力が、電話会社の立会いもなしに、その意味で「秘密裏」に盗聴する範囲を拡大する方向で議論が進んでいます。
一方、取調べの全面可視化、つまり、警察や検察の「取調べ」をオープンにするなんてことは全然進んでいません。「見えないところではなんでもする」が基本である以上、一部だけ都合のいいところが「可視化」されても全く意味ありませんからね。
ということで、対外的には「戦力行使の自由」、国内的には「監視・弾圧の自由」を求めて権力は、ジョージ・オーウェル『1984年』的監視社会へまっしぐらに進んでいます。
実際、今、私たちは、街にいるかぎり、どこで何をしていようとも、どこかのカメラには映っています。刑事事件の記録を見れば、それは驚く程で、監視社会化はあっという間に進んでいるのです。
「犯罪捜査」というのは名目にすぎません。政府の進めることに反対の立場の人々は「テロリスト」と呼ばれ監視の対象にすでになっています。政府の進めたいこと、たとえば集団的自衛権行使=戦争に反対する奴らを監視せよ、ということです。
テレビでワールドカップのお祭り騒ぎを報道し、日々の生活で疲れ果てて、頭も身体もヘトヘトの私たちが疲れ果てている隙に、いろいろなことが進められようとしています。
それにしても、日弁連執行部の屈服ぶりはすごい。少なくとも国民側の人権擁護という立場で、そのような権力とは全面対決すべきなのに、「これ以上悪くならないように」今の「悪法」に積極的に賛成する、という体たらく。この姿勢でここ10年、どんどん追い込まれる一方で、うまくいったことなど一度もありません。
日弁連がなすべきことは人々の立場に立って、権力と対峙し、時に全面対決を辞さないという権力との闘いです。こんな戦争と弾圧の時代を目の前にしている以上尚更でしょう。
そうでなけれは、あらたな「戦前」を迎えるだけ。「新時代の」というのはそういう意味でしかありません。監視社会の確立はなんとしても阻止しなければなりません。
