軽〜い言葉 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 小泉首相の頃からでしょうか、「人生いろいろ」とか「感動した!」とか、妙に軽いフレーズでお茶を濁すような答弁や発言で、その場をしのぐようなことが多くなったのは。笑いをとって終わり、みたいな。
 そもそも「人生いろいろ」は、その後「会社もいろいろ、社員もいろいろ、いい社長さんでしたねえ、会社なんてこなくていいっていうんだから」と続いて、勤務実態もないのに厚生年金に加入していたことを追及されての答弁。これでカワしたことになるのかしらん?

 安倍首相の先週の集団的自衛権容認に向けての記者会見での「国民の命を守る」っていうのも、なんだか同じような、テキトーな軽い言葉のように響きます。「国民の命を守る」ねえ・・・。武器使って、他国民を殺害して「国民の命を守る」ねえ・・・。国民(但し、一部法人=資本)の命(のような財産と権益)を守るというのが本音ですよねえ、どう考えたって。

 ともかく、「本気の言葉」なんて出て来ない訳です、首相からは。ウソと欺瞞とゴマカシとその場しのぎ。軽~い言葉の展示会。

 翻って、では、私たちの日常の会話はどうでしょう? そんなに真面目に会話しているかな? テキトーな相づちと、曖昧で相対的な責任回避の言葉に溢れてたりして・・・。

 まあ、私たちも忙しいからねえ。そんなにじっくり物事考えていられないし。コムズシイことは誰かヒマな人にまかせておきたいし。まあ、チャチャッとその場をしのげれば・・・・っとこれじゃあ国会と同じだな。小学校の学級会の方が、まだ真剣かもしれませんね。

 同じ言葉を使っても、主体によって異なる、例えば、ロシア革命期のカウツキーとレーニンでは「歴史において何が必然的に生起するのか」を知ろうとする学者と「歴史において何を必然的に生起させるのか」を主体的に掴もうとする革命家という差異があって、同じ言葉でも、まったく意味が異なる旨指摘されてます(『未完のレーニン』白井聡著)。

 要は、「世界」に対し受け身で眺めるだけか、それとも主体的に立ち向かうのか。言葉は、どこまで軽くなるのか、重くなるのか。私たち次第、ということでしょう。忙しくて大変でしょうけど、食い下がって頑張りましょう。

 どうせ、日中開戦とかに至っても、戦争が始まりました、とは発表されないでしょうね。「事変」とか(古っ)。まあ、「安全保障活動が始まりました」とか。せいぜい「衝突」とか。

       言葉にごまかされないよう、要注意ですねえ。