国家を人格的に表現したり、また、会社(法人 すでに法人って擬制している法制度自体が)を人として扱う時点で何か、変だな、って思います。デヴィド・ハーヴェイやチョムスキーもそう指摘しています。法人と個人を同じ人と扱うおかしさ、みたいなこと自体。王様の耳はロバの耳ではないですけど、「法人は人ではないですよ~」と言ってしまっていいのではないでしょうかってことです。
国家間の戦争も、「個人の喧嘩」じゃないし、戦争の「動機」も「国家の感情」なんてものではありません。あくまで資本・政府の「利害」です。
「我が国は」とか、「我が社は」ということを、国民や従業員が口にするのは、ちょっと違うのではないか、と思うのです。
正確には「私が属する国家の政府は」とか、「私が雇用されている会社では」ということであり、何度も何度も確認するとおり、国家と私、会社と私は、利害は基本的に対立しているのです。
その対立をごまかすのが「ナショナリズム」という包容だし、排外主義の気分を煽って進める戦争動員です。
私個人が、アメリカ人や中国人や北朝鮮人と殺し合う動機は一切ありません。彼らにもないでしょう。このことは何度も確認したいと思います。
だけど、「国家」は動機はあるのです。資本というのは拡大=侵略していかないと持たないから戦争をする動機が21世紀でもあるのです。
新自由主義的な発想として「トリクルダウン」というのがあります、資本が儲ければ、その「おこぼれ」で私たちも潤うっていう発想です。
これは、ウソです。メーデーの日のBlogで指摘した通り、最高の利潤を得ていた時期、賃金はドンドン下げられていたのです。
まあ、でも国はなんとかしてくれる、なんだかんだ言っても政府は国民である我々を見捨てない・・・そうでしょうか? だったらなんでドンドン戦争と原発政策に突き進むんでしょう?
ホント、口を酸っぱくして言い続けてますが、国家と私たちは別であり、利害は相反しています。
やたら、「集団的自衛権」の議論が発信されていますが、そもそも「国家くん」に「戦争をする権利」なんて与える必要ありません。集団的自衛権なんて、20世紀半ばに、戦争したい帝国主義が勝手にでっち上げたものです。
ともかく、1、国家と私たちの利害は対立している、2、戦争で犠牲になるのは私たちで、やる意味はない。
このことを何度も、何度も確認しあいましょう。そんな時代です。
