私=日本ではない、という自覚 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

ブログの説明を入力します。

 時代がキナ臭くなってくると、「大きな物言い」が跋扈してくるのか、新聞でも、例えば、「経済も軍事も台頭する中国と向きあわなければならない。そのために、民主主義や人権といった価値観を共有する米国との同盟関係を固める必要がある。」(朝日 4/13)なんて文章が平気で出てきます。
 この文章自体、何カ所も「それ違うんじゃないの」という箇所がありますが、何よりも、この文章の主語・主体が「私たち=日本」を想定して書かれているという点に大きな問題点を指摘しなければ、と思います。

 これって、既に「ナショナリズムの発想」にそのまま飲み込まれているんじゃないの?ってことです。

 私たちと日本政府の利害は、完全に、非和解的に対立しているのです。
 戦争で恐慌を突破したい資本のエージェントとしての政府vs戦争に動員され殺し殺される私たち。
 原発を輸出し再稼働させ刹那的利潤を上げたい政府vs放射能で未来が脅かされる私たち。

 「私たち=日本」という想定には、議会制民主主義が民主的に機能しているという前提があるのだと思います。つまり、私たちが曲がりなりにも選んだ議員・政府により日本は動いているのだと。
 しかし、それは「幻想」であり、議会制民主義という支配階級のゴマカシにすぎません。

 大事なのは、自分、そして仲間と共有可能な「小さな感覚」だと思います。
私は日本ではない、日本政府の向かおうとしている方向と私の利害は明確に対立する、おかしい、という感覚は皆、持っているのではないでしょうか。

 まだ、実感は出来ないかもしれません。政府は具体的に朝鮮半島有事、つまり、朝鮮半島で戦争が行われることを現実的想定として議論を進めています。朝鮮半島ってすぐそこですけどね(逆さまに見ると「日本海」[この名称自体ナショナルなものですが]なんて池みたいですね)。

 「日本」や「アメリカ」や「中国」を擬人化して語るのもおかしいです。安倍首相の「論理」は、例えば「米国が攻撃されたとき、日本が血を流さないで『イコール・パートナー』といえるのか」みたいな浪花節的ナショナリズムですが、血を流すのは安倍首相ではなく、私たちや他国の仲間だし、イコール・パートナーの主体はあくまで、資本と政府の間の話で、私たちの関係ではありません。

 「私たち」が、向き合うべきは「中国」ではなく、中国で同じく洗脳・動員に晒されようとしている人々です。パートナーとなるべきは「アメリカ」ではなく、アメリカの人々、労働者たちです。
 「国家や政府や資本(法人)」ではなく、人々と連帯し、共に無駄な血を流すのをやめよう、くだらない資本・政府の利害と魂胆を暴露しようと意思を繋げていきましょう。