崩れ去る「国家と司法への信頼」のイメージ | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 国家というものは、私たちが民主的に選んだ代表者により運営されている私たちの機関です。そして、その中の検察庁は、真実究明を求める正義の機関です。
  ・・・みたいな「常識」的イメージが、一昔前はあったと思います。なんというか国家や司法に対する信頼のイメージです。 

 レーニンは、随分前から『国家と革命』などで、刺激的な指摘をしていました。
 例えば、「国家は、自分の対立者(自分に対立する階級)と和解できない一定の階級の支配の機関である。」とか、「真の『国家』活動は舞台裏でおこなわれ、各省や官房や参謀本部によって遂行される。議会では、『庶民』を欺こうという特別の目的でおしゃべりをしているにすぎない。」とか、「ある程度完全な民主主義…しかし、この民主主義は、つねに資本主義的搾取の狭いわくでせばめられているので、実際には、つねに、少数者のための民主主義有産階級だけのための、富者だけのための民主主義にとどまっている。…これが資本主義社会の民主主義である。」とか、「被抑圧者は、数年にいちど、抑圧階級のどの代表者が議会で彼らを代表し、ふみにじるべきかを決定することをゆるされる!…資本主義的民主主義の本質」などなど・・。

 どうしても集団的自衛権を容認させたい政府=安倍首相と、集団的自衛権=戦闘行為で「動員」され、殺し殺される関係に陥れられる私たち(の子ども達)の「利害」、どうしても原発の再稼働・輸出を始めたい「原子力村」と放射能による甲状腺がんの恐怖に脅かし続けられる私たち(の子ども達)の「利害」を考えると、レーニンの指摘は、今や、まさに!と腑に落ちると思います。

 また、様々な著名事件で無罪を獲得されている弘中惇一郎弁護士の『無罪請負人 刑事弁護とは何か?』では、「刑事裁判と真相」というテーマで「刑事裁判は証拠によって結果が決まる。同じ裁判所、同じ事件であっても、そこで採用した証拠が何かによって、認定された内容はまったく異なってくる。しかもその証拠は被告人を処罰するかどうかという基準をもとに集められるため、真実の究明には結びついていかない。
 要するに、刑事裁判は客観的な真実を明らかにする場ではない。刑事事件化と真相究明は絶対的に矛盾するのである。」と鋭く指摘されていますが、多くの弁護士は、やはり、まさに!と合点がいくのではないかと思います。
 どう考えても、真実を追求しているのではなく、いったん決めた被疑者・被告人を有罪にするストーリーだけにこだわっているとしか思えない検察官の活動に出くわすことが刑事弁護の現場では度々あるからです。

 国家や司法への信頼のイメージは、「現実」によりほぼ崩れ去ろうとしているように見えます。もはや、ごまかすことは出来ません、私たちは「現実」を生きています。「現実」から出発し、私たちの手で未来を獲得するしかない、のだと覚悟して頑張りましょう!