例えば、ギターがちょっと弾けて、それで、ちょっとした曲が作れたとして、その最大の褒め言葉が、「おお、いいね、それ売れるよ♪」みたいなのって、まあ結構、普通の会話な気がします。けどそれって、なんだかなあと思ってきました。
でも、今、確かに、それより説得力があり、主観的評価を越えたような褒め言葉がない、ってことかもしれません。そうかと言って、小泉元首相の「感動した!」みたいなのも、それはそれで一過性っぽいし(彼の原発反対はどこに行くのでしょう?)ねえ。
昔は、花形満的ブルジョアより、星飛雄馬的プロレタリアート価値観の方が、かっこよかった気がするんだけどなあ・・・。
「支配的階級の思想はいずれの時代においても支配的思想である。」(『ドイツイデオロギー』)とマルクス・エンゲルスが指摘していますが、要するに、ある時代の「当たり前」や「常識」は支配階級に作られる、ということを指摘しています。
そして、デヴィット・ハーヴェイは「要するに新自由主義は、普遍主義的な言説様式としても、そして世界中の公的政策の基礎としても、ヘゲモニックなものになったということである。それはますますもって、われわれの多くが世界を解釈しその中で生活しそれを理解する際の常識的あり方を規定していった。今やわれわれはみな、しばしばそう自覚することなしに、新自由主義者なのである。」(『コスモポリタニズム』)と言っています。
まあ、自分も含めて、そうかもしれないなあ、って思います。
要するに、「お金を稼いでいる方がエライ」、とか、「良いものは必ず金銭的に評価されるし、されるべきである」「何事も効率優先、効果的か否か」みたいな基準。逆に、そのアンチも極端に構成され「人生、お金じゃないぜ」「ロハス」みたいに、いずれにせよお金を意識してしまうということです。
「『個人の自由』の追求を生活レベルで解釈すると、やる気や渇望感を抱きながら、幸福感や物質的富を求めることであり、利己主義や不誠実を正当化するものとなる。その追求は、職業からプライベートまでの人間関係を破壊の危機に追い込み、家族や社会の脆弱性を高めることにもつながる。」
「人々は消費者としての欲望を最大化させ、貪欲さが激化することになる。そうなれば、従業員・ビジネスパーソンは、これまで以上にマネーを稼ぐことだが目的の『傭兵』になる。一方、『愛』は、快楽主義とエゴイズムが混じり合ったものになる。」
「熱心に説かれる自由がもたらす効用は、金持ちだけのためのものである。」
と言っているのは、最近、お気に入りのジャック・アタリですが、「市場原理」「競争がすべて」とは、違う価値観を提示するのは今、難しいかもしれません。
昔からお気に入りのみうらじゅんも「『世の中お金じゃない』と説くためのいい例え話がないのがツラい」ってことをクドカンとの対談(『どうしてキスしたくなるんだろう?』)でのたまわってます。
う~ん。でも、そんなことないか・・・駆け引き抜き、損得抜きの人間関係っていうのもありますよね?ね? 「快楽」と「エゴイズム」だけじゃない愛ってありますよね?「**してくれないから、○○してあげない」じゃなくて・・・。
まず、自分から意識して変えないと、ですねえ・・・
