作家を追いかける。 同時代を並走する。 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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伊丹十三さんは、才人で、印象に残る役者であり、シャレた文筆家であり、面白い映画監督でした。しかし、私にとって決定的に重要なのは、19歳の頃、年上の方から借りて一晩で読んだ大江健三郎さんの『日常生活の冒険』のモデルとなった人、という点です。
 その時点では、もちろん、そんなことは知らず、その主人公「斎木犀吉」の生き方に若い私は感銘を受け、その後も強く影響を受けたのですが、あくまで想像上の人物なのだろうと思っていました。
 いつしか、大江さんが結婚したのは伊丹さんの妹であること、大江さんと伊丹さんは四国での高校時代からの親友であること、などを知るようになり、ひょっとしたら伊丹さんがモデルなのかなと思っていました。

 『日常生活の冒険』では冒頭主人公の遠い国で自殺、という話から友人である作家が友の回想を始める、というスタイルでストーリーが展開するのですが、その後、1998年に伊丹さんが現実に「自殺」したというニュースを耳にしたとき、あのような小説を書いた親友の大江さんはどういう風に受け止めるのだろう、と(他人事ながら)「心配」になりました。

 そして昨年の『晩年様式集』では、モデルであることを明確に表現しつつ(いずれにせよ実名ではないフィクションですが)、その私が「心配」していた「自殺」についての「回答」が、ある意味正面から著されていました。

 私の中では30年前に現れた強烈な「主人公」が15年前に現実に「自殺」し、自分の中でもちょっとすっきりしなかったところ、昨年その辻褄の「整理」が出来た気がして、妙にほっとしました。大江さんにとって伊丹さんがどういう存在だったのかはわかった気がします。兄貴格の友を失ったことの大きさ、も。

 現役の作家の作品をずっと追いかける(全ての作品ではないのですが)ことは、同じ時代の中をどこかで同じ速度で年を取っていく、という意味で「並走」させてもらっていると実感出来て、勝手に励みや自分の生き方の検証対象にさせてもらっています。私にとってはミュージシャンのCHARやROLLING STONESも、ずっと追いかけて(勝手に)「並走」してきたつもりです。高校・大学の軽音部の先輩達に対しても同じような気持ちを持っています。 
 30年以上前から、常に、先を(いろいろな事があったとしても、いやあるからこそ)元気に生きている人が同じ時代の中にずっと居るというのは嬉しく、貴重なことだと思います。ありがたいことです。

 いろいろな事を抱え、体験してきた作家の大江健三郎さん。日常生活の冒険という意味は、「斎木犀吉」に言わせれば、20世紀の人間は誰もが核で殺されるという「日常生活」を生かされている、その「日常生活」からはみ出すんだ、冒険するんだ!ということでした。
 大江さんが、今、反原発運動の先頭に立っていることを、眩しくも、大きな励みとして受け止めています。