時代の「違和感」  裁判所が自ら判決を燃やすとき | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 裁判所というのは、証拠に基づき審理をし、判断するのが仕事であり、そこに存在意義があります。その裁判所が判決を下した側からその判決を含む訴訟記録を焼却するとしたら・・・それは、裁判所の存在意義を脅かす自己否定、自殺行為ではないかと思います。
 
 しかし、日本の裁判所は、それを行ったという歴史があります。ポツダム宣言10項では「我々の捕虜を虐待したものを含み全ての戦争犯罪に対して厳重な処罰が加えられるであろう」と規定しています。これを受諾した1945年8月15日から連合軍の進駐が開始する28日までのわずか2週間の間に、裁判所は、治安維持法違反「横浜事件」につきそそくさと審理し、判決を下した上、当該判決及び訴訟記録を焼却・隠滅したのです(国はこの事実を明確に認めたことはないですが、否定したこともありません)。

 つまり、裁判所は治安維持法違反事件の処理が「戦争犯罪」に当ることを認識し、そのうえで、自らが責任追及されないためには法を犯してでも証拠隠滅に踏み切った、ということです。

 この歴史から、私が思うのは、裁判官らが治安維持法違反事件の処理に当時から「違和感」を実は持っていた、持っていながら粛々と処理をしてきたのではないか、自分の行っていることの意味が薄々わかっていたからこそ「犯跡」を隠滅したのではないか、という「恐ろしさ」「醜さ」です。

 特定秘密保護法が成立し、戦争体制への政府の踏み切りも著しい今、二度とこのようなことが起こらない、起さないと言えるでしょうか。私たちは日々、本当は違うんだけどなあ、と「違和感」を抱きながら、時代に流され初めていないでしょうか。

 私は、最近、ちょっと、なんとも言いがたい「違和感」を感じてきました。忙しくて、目先のこと、ごく身近なことしか手が回らず、時代がドンドン悪くなっている(戦争と貧困に向かっている)にも関わらず、流されていきそうな隔靴掻痒感です。やるべきことを・・・やっているか?という想いです。忙しさに、紛れていないか、自分をごまかしていないか、という・・・。

 もちろん、諦めるつもりはありません。この時代の「違和感」をむしろ大事に意識し続けなければ、と思います。そして、時に「大きな流れ」に逆らうことになっても、行動しなければならないときはある、そういう時代だと覚悟しなければ、と思います。