一昨日の1月17日は阪神淡路大震災の日。95年のこの日、私は家永教科書訴訟弁護団の合宿で横浜に居て先輩方とテレビに釘付けになりました。そして、すぐに神戸修習時代の仲間に必死に電話掛け安否を確認しようと試みました。何人かとは連絡がつきました。高速道路にぶら下がっているバス、火の海の街・・。その衝撃は凄まじいものでした。これが95年の幕開けです。
そして、2月に入り、霞ヶ関の駅で、「秋の嵐(反天皇制全国個人共闘)」のリーダー見津毅くんとばったり会い、当時、彼は社会新報の記者でしたが、この時「森川さん、神戸行こうよ、街中がホームレス状態だよ」と誘われたことをよく覚えています(この会話自体が彼との最後の会話になりました)。
見津くんと一緒に行くことはできなかったのですが、その頃、知り合っていたピースボートのスタッフたち=辻元清美さんや櫛淵万里さんらと2月中だったと思いますが、神戸の長田区という最も火災の被害がひどかったところまで同行しました。大阪までは新幹線が通っており、そこからは確か在来線で尼崎まで行き、バスを乗り継いで行ったと思います。私としては、修習地として1年4ヶ月暮らした街、よくお世話になっていた定食屋さんなど街がどうなった確認したいという気持ちも強く、実際に三宮のお店を訪ねてみました。
さらに西の長田の街は、「ああ戦場というのはこういう感じなのではないだろうか」という、まさに焼け跡の街でした。ガソリンスタンドだけが残っているのが印象的でした。その焼け跡の街で既に法律相談に入っている弁護士(伊藤芳朗さん等)にも出会いました。
東京に戻って、地元のバーの仲間たちと区のセンターのホールを借りて、震災チャリティーのライブをやろうということになり、3月19日(日)の夜に予定しました。
ところが、この日、見津くんが交通事故で亡くなってしまったのです。私のところにもすぐ連絡が来ました。27歳でした。私は、若い見津くんとは親しかったですが、彼の勇気や行動力をとても尊敬していました。弾圧事件や新宿戸山の陸軍医学校跡地で発見された人骨問題などで弁護士になった年から知り合っていた彼。彼とはずっと長く付かず離れずで付き合って行けるだろうな、と思っていた矢先だったので、とてもショックでした。
夜のライブはモヒカンの大田りょうくん(2002年に没)の前口上もあり、追悼ライブとなりました。私も酔っぱらって、調子の悪いマイクスタンドを蹴っ飛ばしたりしていたみたいです(後に見津くんのお葬式にはかなりの人が集まり、大学同期の笹沼弘志さん(憲法学者)とも久しぶりに会いました)。
そして、翌日。よく晴れ渡った晴天の月曜日、3月20日、地下鉄サリン事件が起こりました。
この日、私は実家の近くの中野坂上から霞ヶ関の裁判所に行く予定だったので、駅に向かったところ駅で何かがあり、入れないとのこと。遅刻しそうだったので、新宿駅までタクシーで行き、そこから丸の内線に乗りました(というかこの時点では乗れました)。ところが、地下鉄は霞ヶ関駅で止まらずに通過して、銀座駅に着きました。そこから日比谷公園を横切って裁判所に到着しましたが、その頃には何かとんでもないことが起こったということがジワジワわかってきました。パソコンも携帯も普及していない時代です。
その日から、しばらく東京は「戒厳令の街」のようになりました。裁判所の入所チェックがされるようになったのもその頃からだったはずです。
オウム真理教の犯行ではないかということになってからの別件逮捕の日々。事件の大きさと捜査の違法性。オウムの事件を引き受けるか否かというのは、弁護士にとって一つの「試練」となったと思います。
5月には、私が企画の責任者となって憲法フェスティバルという催しを九段会館でやりました。この時、大谷昭宏さん、姜尚中さん、小林節さん、鈴木邦男さん、そして、ニュースペーパーの松元ヒロさんたち、それからランキンタクシーさんに出演してもらい、一つのエポックメイキングになったと思います。
1995年。この年は、日本の社会全体にとっても、私個人にとっても、何かが大きく変わった年だったと思います。皆さんは、この年の「あの時」をどう過ごしたでしょうか。
