デモとは、つまりデモンストレーション行為の略ですが、持たざる民衆の表現の手段です。持たざる民衆というのは、もちろん、私たち一般庶民、いわゆる99%側の人間が、マスメディアも利用できないし、教育システムを介在することも出来ない、その中で、なんとか、為政者に対し、アピール、そして、さらに多くの仲間に呼びかけるための方法ということになります。
今は、SNSがあるので、呼びかける手段としては、格段に拡がりがありますが、SNSそれ自体は、あくまで「手段」であり、それを利用して、例えば、デモを呼びかけることが有効であり、それは、世界各国の民衆・労働者が実践しています。
私は、デモを絶対視しているわけではなく、それ自体も一つの「手段」だとは自覚しています。それくらい、SNSと同じくらい気楽に「自由」に選択してもいいのでは、と思うだけです。
しかし、未だメディアや「教育」により、デモというのが何か、「怖い」もしくは、「無駄」だと思い込まされている(洗脳)されている人も多いでしょう。
「自由」というのが、内面にも実践的にも壁を設けないことだとすれば、多くの人が「政治」的意見の表明やデモなどの行為に対して自分で「壁」を設け、そこからはみ出さないことをよし、としていると思います。あたかも、政治的なことを表明しないことを「自由」に選び取っているかのように。「中立・公正」であることが「自由」であるかのように。
デモの意味は、実際は、「力」の表明です。社会の主人公である民衆が集まることにより力を権力に対し誇示すること、いつでも、現実的に力を行使できるぞ、と示し、かつ、集まった仲間とその力の自覚を拡大すること、だと思います。これを「暴力的」と捉えることから「洗脳」は始まっていると思いますが、むしろ、暴力的なのは、治安・規制という名でデモを力で制圧しようとする警察の方、つまり、民衆からは取り上げ、合法的に暴力を独占している権力の方です。
デモは、自由な行為です。フリー(無料)で、主体的なアクションです。自分が、自由を望むものと自覚している人は、自由に参加できます。まずは、内面の「壁」を飛び越えて、自由をつかみ取って下さい。
本日は、裁判員制度反対デモ、来週は、秘密保護法反対デモが続きます。都合に応じて、仕事帰りに参加すればいいのです。それで意思表示は可能です。
