その場合、よ~く注意してほしい点があります。
その「日本」に自分が含まれているか、否か。
「日本は、国際社会で生き残らなければならない」というときの「日本」には私たちは含まれていません。むしろ、「日本=資本」の生き残りのために、お前ら民衆は、骨身を削って犠牲になれ、ということで利害は相反します。
「日本は原発を全部廃炉にすべきだ」という場合の「日本」には私たちは含まれるし、むしろ、「私たちは」という主体性を軸として考えるべきでしょう。
どちらかというと「日本は」という主語でモノが語られるときはうさん臭いことの方が多いと思います。「日本とアメリカの利害が対立している」とすれば、それは、日本資本とアメリカ資本の対立であり、私たち民衆の階級レベルでは、なんら対立はない、むしろ、同じように国内でブラック企業に搾取されているだけ、だからです。
たいていは、民衆・労働者は国内で権力・資本と利害は対立しています。他国の民衆・労働者と殺し合う(=戦争)必要は、民衆にはないはずです。
今の時代、どこの国も国内的に、国民の不満を抱えているのですが、そんなとき、「日本は」とか「我が合衆国は」という語りが出てくるのであり、これは、不満を対外的対立に回収しようとするもの(排外主義)であり、ここは要注意です。
企業・大資本の内部留保は増加しても、雇用は非正規が拡大する。これが「日本の」現実です。韓国やアメリカはもっと酷いですけど。
くっきりと非和解的に利害は対立しています、「日本・韓国・アメリカ」とそれぞれの国の民衆は。
もっとも、多くのメディアでは、わざと曖昧に「日本は」を使っていると思います。ある文脈では、私たちを含み、ある文脈では、企業だけを含む・・・。
「日本は変わらなければならない」 さて、この場合は、どちらでしょうかねえ♪
